一白町付近から見る3月の白山。
石川県 加賀市 一白(いっぱく)町
加賀市一白町の文献記録
『柴山(近代): 戦時中予科練の水上飛行基地となり、その指導者が土着し、一白(いっぱく)開拓
集落となる。昭和33年加賀市の町名となる。昭和40年から柴山町の一部が通称一白町と呼ば
れる。』
参照元:『角川日本地名大辞典17 石川県』
月津村柴山
『村は柴山潟の北岸にあって、土地は東西に伸びて長く汀岸一里に及び、土地の高低又甚だし
く、家は段階状に点在し、戸数は百五十余戸ある。終戦後は海軍予科練の敷地払下げの跡に、
開拓団が入植しさらに戸数は増加した』
引用:月津村史(昭和32年)
現在の加賀市柴山町は、もともとは月津村柴山でした。戦後の町村合併で昭和30年4月、月津村が小松市に編入するとき
に、柴山は小松市に編入せず、「片山津町柴山」となりました。そして、昭和33年の加賀市発足時に柴山町となりました。
その柴山町の一部だった一白集落が昭和40年ごろから通称「一白町(いっぱくまち)と呼ばれるようになりました。
一白町が地籍として行政に登記されたのは、1996年の5月のことでした。
かつての予科練跡地の空に、航空自衛隊の練習機が着陸していきました。
1985年8月6日、かつて海軍小松航空隊の正門のあったそばに、生徒たちによって記念碑が立てられました。
後方の飛行機は、航空自衛隊小松基地に着陸していく、練習機のT-400
(第3輸送航空隊/第41教育飛行隊、美保基地所属機)
石川県小松市にある航空自衛隊小松基地。日本海の領空を守る国防の最前線基地ですが、この基地の前身は、太平洋
戦争中に建設された『海軍小松飛行場』で、終戦直前には人間爆弾『桜花』で有名な第721航空隊、通称『神雷特攻隊』の
基地でした。
太平洋戦争が激化していく中で、日本海側の小松市に小松基地を建設し、それに伴って昭和19年9月、パイロット養成所
としての『小松海軍航空隊』(海軍飛行予科練習生=予科練)が小松基地近くの加賀市柴山町〜新保町(当時は月津村柴
山)付近に設置され、全国から約6,000〜8,000人もの若者が集まり、パイロットになるための厳しい訓練をしていました。「予
科練」は戦闘機搭乗員の短期養成所で、当時海軍は航空戦力増強の目的で予科練に多くの中学生を募集しましたが、戦
局の悪化とともに昭和20年3月に小松航空隊は訓練を凍結、6月に解隊。学生たちは特攻隊員や陸戦隊として戦地に向か
いました。
昭和20年8月15日の終戦後、都市部の大空襲で家も家族も失った若者たち約40人が、そのまま柴山の予科練跡地に
住み着き、柴山の丘陵地帯を開拓して農業で戦後を生き抜きました。
もともと加賀市には「一白」という地名や集落は無く、古くから柴山と呼ばれてきた柴山潟湖畔の丘陵地に戦後、開拓者集
落を形成したのが加賀市一白町の始まりです。「一白(いっぱく)」という町名は「白紙になって、一つになる」という当時の若
者たちの思いから付けられた、あるいは「昭和21年の元旦に白山が真っ白に見えたから一白と名付けた」とも言われます。
敗戦で全てを失った若者たちが、真っ白な白山を見て、この地で一からやり直そうと戦後を強く生きていく決意をした思い
が込められている町名といえます。
現在、加賀市柴山町〜新保町の丘陵地は農地として開拓され、田畑が一面に広がり、一白町は人口は250人ほどの町
となっています。「ホテルアローレ」の後方に広がる広大な農地と小さな町が一白町です。
小松海軍航空隊の正門跡地に「一白」の看板が立つ
加賀市 一白町の歴史
加賀市一白町の生まれる基となったのは、旧海軍小松航空隊(予科練)の存在でした。
昭和時代の始め、戦争への道を突き進んでいた日本は、あらゆる面で軍事優先の政策で動いていました。
旧海軍が昭和16年12月1日に、戦時下の食料増産のため国策として、小松市安宅新町(今の小松空港付近)一帯の松
林(約32万坪)を開墾しました。そして、昭和17年5月、その内の32町歩を、一部請負と一部勤労奉仕で仕上げました。
ところが戦況悪化のため、昭和18年4月、この土地を海軍飛行場用地に変更して、学徒、報国会、刑務所の囚人など延べ
20万人を動員して、突貫工事で飛行場を建設しました。
そして、愛知県豊橋にある飛行場が空襲された場合の退避飛行場として小松が選ばれました。
昭和19年9月1日、予科練教程専門の練習航空隊として、三沢海軍航空隊(二代)、清水海軍航空隊と同時に開隊しまし
た。当時の司令は吉本栄一大佐でした。こうした航空隊は、全国に19ヵ所設置されました。
旧海軍小松航空隊は敷地面積639,500平方メートル(現在の加賀市新保町〜柴山町、一白町)と、広大なもので、その中
に定員兵舎4棟、練習生兵舎50棟が建っていました。その他に、未完棟が7棟もありました。
最初に配属された隊員の内訳は、美保海軍航空隊(島根県) 14、15期生と奈良海軍航空隊 15期生、そして甲種飛行予科
練習生で、合せて約4,300名という大規模なものでした。
昭和19年9月1日には、美保空 14期生 四ヶ分隊と操縦練習生(一式陸攻〉。
昭和19年12月4日には、美保空15期生 十ヶ分隊。
昭和20年3月10日、奈良空15期生 十ヶ分隊がをれぞれ配属きれました。
こうして、17歳〜18歳の若者だった予科練生たちは、東京、埼玉、栃木、奈良、大阪など全国各地から集められたので
す。
小松航空隊には、ピーク時には6,000人、一般兵士を含めると約8,000人が日々の訓練に明け暮れていました。
ところが戦局は悪化の一途をたどりり、予科練生たちが乗る飛行機も次々と戦地に駆り出されて、練習する飛行機がなく
なってしまい、「翼なき予科練習生」とまで言る有様でした。
昭和20年3月には予科練教程の教育が中止となってしまいます。そして、同年3月には連合軍が沖縄に上陸してきて、さら
に戦局が厳しくなってくる中、特別攻撃隊(特攻隊)として、爆弾を装着した飛行機や魚雷艇に乗り込みそのまま敵艦に体当
たりする訓練を始めたのです。
一白町開拓者の中にも終戦がもう少し遅かったら出撃していたという人が何人もいたそうで、小さい頃父親から『戦争があ
と一ヶ月延びていたらお前は生まれとらん』と言われたことがある、という住民もいます。
戦局が更に悪化してきた昭和20年6月30日に、海軍小松航空隊は解隊されて、7月1日に舞鶴海軍警備隊に編入される
ことになりました。
その後、予科練生達は、本土決戦に備えた特攻基地建設(田畑に木材を敷き詰めた滑走路を造成)のため、七尾市田鶴
浜近郊に赴きましたが、完成をみることなくそこで終戦を迎えました。
一白町に点在する、防空壕跡。
※埋め戻したり、長年の土砂の流入で埋まっていますが、まだ空洞が確認できます。
地下には坑道のようにトンネルが掘りめぐらされています。
一白町は小高い丘陵地にあり、地下壕の出入り口があっちこっちにありました。
ところで、一白町のあちこちに「防空壕」というものがあるのをご存知でしょうか?
「翼なき予科練習生」となった予科練生たちが、「本土決戦」に備えて掘ったもので、今でも点在しているのを見ることがで
きます。記録がないので正確な位置、数は分かりませんが、当時はもっとたくさんあったと思われます。
昭和20年8月15日の敗戦を境に、あらゆるものが一変しました。そして、ここから一白町誕生への胎動は始まったのです。
同隊所属の予科練習生達が終戦を機に予科練跡地で開拓を始めるわけですが、当時の高木正雄司令(少佐)が、予科
練習生達を帰郷させる際に、「帰郷しても住む所がなかったらここで開拓してみないか。ここで骨を埋める覚悟のあるものは
一ヶ月後の9月15日までに帰って来い。」 と一旦故郷に返し、開拓の準備を始めたのです。
戻って来た者は約4,000人の練習生の内わずか40数人でした。
そして終戦の翌年のお正月に、高木さんは眼前の雪をいただいた白山を指差して、「我々もあの白山のように、白く気高く
一からやり直そうではないか」と、再会した若者たちと新たな思いで開拓事業を始めたのです。
ここから 「一白町」 という町名が誕生したのです。
参照と引用:『一白町の歴史 一白町史編纂委員会 2009年3月』
この町では兵舎らしき当時の建物を、納屋や車庫として現在も利用しているようです。
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