小松の空 〜小松飛行場物語〜


石川県 小松市

1945年8月、落日の小松基地



2015年8月15日
小松基地近くの安宅海岸より眺める、日本海の夕日。




小松基地にて、別れの水盃。
『わが海軍』ノーベル書房より転載
現在の航空自衛隊小松基地付近から小松空港(草野町、浮柳町)方面を見る写真と思われる。
まさか小松基地で特攻の儀式が行われていたことは思いませんでした。
特攻攻撃は小松から直接出撃したのではなく、
全国の基地から召集された隊員が鹿児島県の鹿屋基地に集結して、出撃した。


70年後の現在地


航空自衛隊小松基地

70年前、小松基地の特攻隊員が水盃を飲んで出撃した場所には平和を謳歌する
豊かな日本の姿があります。平和の尊さをしみじみと感じませんか?
※当時の十字滑走路の終点と基地司令塔はここにあったので、撮影位置は間違いないと思います。


出撃していく隊員たち。
※写真に見える飛行機は96式陸上攻撃機と思われる。


小松基地の年表
1941年
昭和16
12月8日
真珠湾攻撃。太平洋戦争勃発。
1943年
昭和18
4月1日
舞鶴鎮守府小松飛行場建設事務所設置。
農地開発営団の事業を海軍飛行場の建設に変更し、工事を始める。
1944年
昭和19
6月16日
B29、日本初空襲。(北九州市)
7月13日
退避基地調査に、一式陸攻が小松基地に飛来。
(実用機が初めて小松基地に着陸)
このときはまだ小松基地は建設中であり、滑走路は南北の一本のみ、それも北側 の四分の一は未完成。小松海軍航空基地は、現在の航空自衛隊小松基地のある ところ。
9月1日
小松海軍航空隊開設。
練習航空隊として、予科練教育。
9月20日
小松基地の滑走路、ほぼ完成し豊橋海軍航空隊の退避飛行場と なる。
豊橋空の永石正孝司令は140名の特攻隊員を募り、30機の96式陸上攻撃機が小 松基地に移り九州進出に備えた。豊橋海軍工廠のカーバイトの焼却灰を小松基地 へ輸送し赤土と混ぜ合わせ、三和土(=固い土)をつくり、滑走路に敷き詰めてセメ ント不足を補った。
11月15日
小松基地の滑走路完成。
1945年
昭和20
3月15日
豊橋空の一式陸攻小松基地に移動。
3月21日
第一神風桜花特別攻撃隊 (桜花16機一式陸攻18機 零戦18機、全滅)
3月29日
大分県宇佐基地にあった神雷部隊(721空)は一中隊を鹿屋基地 へ移動。残りは小松基地に移動。
4月 1日
第二神風桜花特別攻撃隊 (桜花3機、一式陸攻3機、零戦14機)
4月 6日
B-29 小松市上空通過(石川県初飛来)。
4月12日
第三神風桜花特別攻撃隊 (桜花9機、一式陸攻9機)
4月14日
第四神風桜花特別攻撃隊 (桜花7機、一式陸攻7機)
4月16日
第五神風桜花特別攻撃隊 (桜花6機、一式陸攻6機)
4月28日
第六神風桜花特別攻撃隊 (桜花4機、一式陸攻4機)
5月 4日
第七神風桜花特別攻撃隊 (桜花7機、一式陸攻7機)
5月11日
第八神風桜花特別攻撃隊 (桜花4機、一式陸攻4機)
5月25日
第九神風桜花特別攻撃隊 (桜花12機、一式陸攻12機)
6月10日
神雷部隊、攻撃708飛行隊は小松基地に移動。
6月22日
第十神風桜花特別攻撃隊 (桜花6機、一式陸攻6機)
7月 3日
神雷部隊の桜花隊、鹿屋基地から小松基地に移動。
7月 5日
721空(神雷部隊)本部を松山基地に、主力を小松基地に展開。ゼ ロ戦20機、小松基地に移動。
8月15日
午前8時、海軍第3航空艦隊第706航空隊、小松基地出撃。サイ パン島奪還のため豊橋基地経由、木更津基地集結。
正午、終戦の詔勅(玉音放送)下る。
ポツダム宣言の受諾、終戦。
8月22日
小松基地の神雷部隊解散式(350名)。
8月23日
小松基地の神雷部隊最後の飛行。
一式陸攻で出身地別に帰郷。
8月24日
この日以降、日本国籍の航空機の飛行は全面禁止された。

1944年の6月より攻撃708飛行隊が空襲の恐れのある愛知県豊橋から退避基地として小松に来ており、
一式陸上攻撃機の部隊がいました。

七〇八飛行隊は小松基地から鹿屋基地へ展開し、第一回で全滅した七一一飛行隊の後を継いで
第二回から十回までの攻撃に参加した。

特攻のたびに小松基地から集結地である鹿児島県の鹿屋基地へと飛び立ち、
出撃機のほとんどが帰ってくることはありませんでした。

6月末に沖縄県がアメリカ軍によって陥落後、九州の基地への爆撃が激しくなり、本土決戦に備えて
人間爆弾部隊である桜花隊が7月より小松基地に移動してきました。

終戦までの短い間でしたが、燃料の枯渇していた小松基地で飛行訓練は行われず、
若者たちは鍛錬水泳と称して海で遊んだり、安宅関などの神社仏閣巡り、
今江潟周辺でシジミを捕ったり魚釣りをしたりしてのんびりと過ごしていたようです。

そして突然の終戦を小松で迎えます。
「助かった!」と思う隊員、生き残ったことに自責の念に悩む士官、自殺をしてしまった教官もいました。


3年後の3月に、靖国神社で会おう!そういい残して若者たちは小松から郷里へと復員していった。




雲の彼方に
小松「神雷部隊」の記憶
(2001年8月14日〜18日、北国新聞 連載記事))

石川県小松市にある航空プラザに「神雷部隊」の展示コーナーがあります。
ここにこの特攻隊についての北国新聞の切り抜き記事が紹介してありますが、とても深い内容ですので、こちらでも紹介します。



石川の戦後は解散式から始まった

 夏の終わりの小松飛行場に夕闇(やみ)が迫っていた。一九四五(昭和二十)年八月二十二日。体当たりの人間ロケット 「桜花」による海軍特攻隊「神雷(じんらい)部隊」の解散式が滑走路上で行われた。記録によれば、小松からの出撃は九 回、未帰還は約二百七十人。雲の彼方(かなた)に飛び立った特攻隊の解散は小松海軍航空基地の終戦であると同時 に、石川の戦後の本当の始まりでもあった。玉音放送から一週間後のことである。

 「これから時代はどう変わるか分からん。変な気を起こしてはならんぞ。ともかく自重せよ」。全隊員を集めた飛行長足立 次郎の解散の訓示に、二十五歳の海軍大尉八木田喜良=金沢市在住=は唇をかんだ。機影が見えなくなるまで手を振り 続けた場面が何度も頭に浮かんでは消えた。

 八木田は敗戦の年の四月から六月まで、小松をたった特攻部隊がいったん立ち寄る鹿児島県の鹿屋基地に配属されて いた。「桜花」を積んだ「一式陸上攻撃機」は鹿屋で一夜、翼を休めた後、沖縄、九州沖に結集する米艦船をめがけて飛び 立っていく。

 本来は一式陸攻部隊の隊長だった八木田は「鹿屋基地で夜、悩み事を打ち明けられた若い部下たちの真剣な目を忘れ ることができなかった」と述懐する。

 神雷部隊には戦術というほどの戦術があったわけでない。母機の一式陸攻が敵艦近くに迫り、人間ロケット「桜花」が米 艦船に体当たりするだけだ。胴体に桜花をぶら下げた一式陸攻は動きが鈍い。戦友会が編さんした「海軍神雷部隊」によ ると、沖縄に米軍が上陸した四月一日から六月二十二日まで、小松海軍航空基地から桜花を積んで飛び立った同部隊の 一式陸攻は六十一機を数えた。

 「一式陸攻の搭乗員は特攻隊員ではなかったが、いったん飛べば帰れないことを思えば似たようなもの。命名されざる特 攻隊だった」(八木田)

 八木田は、特攻機が突入する際の電波の発信音を何度も聞いた。「ツー」という発信音がしばらく聞こえたかと思うと、不 意に途切れた。海に落ちたのか、敵艦に命中したのか。鹿屋基地の通信室にいる八木田に聞き分けるすべはなかった が、小さな機体と隊員の命が南の海に散ったことだけは間違いなかった。

 神雷部隊が解散された八月二十二日、小松飛行場に残っていた一式陸攻は三十機余り。翌二十三日からは、乗れば生 きては帰れないはずだった機体を使い、隊員が全国に復員していった。次々と一式陸攻が発進する滑走路の上には抜け るような青空が広がっていた。

 八月二十二日、神雷部隊解散式とは別に、小松市内で開かれた桜花隊の解散式では、いったんは死を覚悟した隊員が 三年後の三月二十一日午前十時、靖国神社で再会することを誓い合った。三月二十一日とは、第一回神雷部隊が出撃 し、桜花をつり下げた一式陸攻十五機を含む十八機が九州沖海上で、戦闘機の迎撃を受けて全滅した日である。

 この出撃は、戦功を全軍に知らせる連合艦隊司令長官豊田副武の布告に次のように記されている。

 「正規航空母艦六隻を基幹とする敵機動部隊を洋上遠く捕捉(そく) これに桜花機を主体とする必死必中の体当たり攻 撃を敢行し悠久の大義に殉ず」

 あす十五日は五十六回目の終戦記念日である。空襲を免れた石川県に戦争の痛みがなかったわけでない。「特別攻撃」 という名のもとに散っていった命の姿を、体験者の重い証言と過去の埋もれた記録をもとに描く。(文中敬称略)







眼ヲツムレバ命中セズ

 五十六年前の夏、小松海軍航空基地の滑走路横に、真っ赤なマツバボタンがじゅうたんを敷き詰めたように花を咲かせ た。十六歳の海軍甲種予科飛行練習生、間山久=栃木県宇都宮市=は、人間ロケット「桜花」を胴体下に抱えて出撃する 一式陸上攻撃機に力いっぱい帽子を振りながら、読んだばかりの「特攻隊必携」の一節を思い起こしていた。

 「最後マデ照準セヨ。眼(め)ヲツムルナカレ。眼ヲツムレバ命中セズ」

 特攻隊員の目は突撃の直前、マツバボタンのように赤く見開かれるに違いない―。

 間山が小松海軍航空基地に配属されたのは一九四五(昭和二十)年四月。同基地で神雷部隊の出撃が始まった直後だ った。「早く兵隊にならなければ日本が負ける。僕が飛行機で米軍をやっつけてやる」。零式艦上戦闘機、いわゆる「零戦」 にあこがれ、疎開先で通った宇都宮中学から志願した予科練であり、あこがれの海軍航空基地だった。隊員の「神雷」の 腕章がまばゆかった。

 しかし、小松の基地で出会った特攻隊員の姿は、間山には異様に映った。眼がうつろで覇気がない。他の隊員と違ってだ らしなく薄汚れたマフラーを垂らしている。動作が緩慢で態度もどこか投げやりだ。

 彼らが同じ特攻隊員でも、いったん小松を飛び立った後、天候不良で引き返し、再出撃の命令を待つ隊員たちと知った のは翌朝のことだった。

 「半分死んでいるように見えるが、思えば無理もない。いったん死を覚悟したが死に切れず、再び出撃せよというのは、二 度死ねというのと同じだから」。間山は、国のため、自分の命を投げ出さなければならない特攻の、言葉にならない恐ろしさ を感じ、ひそかに身を震わせた。

 ある日、突然の腹痛で駆け込んだ薄暗い兵舎の便所で、板塀のすき間から間山の目に飛び込んできたのは、かれんな 花の薄紫色だった。じっと目を凝らせば、幼いころ、ふるさとの東京・王子の街、母と歩いたあの道端で、一緒につんだスミ レの花だ。

 「あの花のにおいをかぎたい」。しかし、花が咲いている場所は兵舎の敷地外である。花に近づこうにも、簡単に外出が許 されるはずもない。間山は、小松に配属されて初めて、ひとり涙を流した。

 小松で神雷部隊と過ごした四カ月間は、間山にとって苦しい記憶しかない。本滑走路に交差する新たな滑走路をつくるた め、山から切り出した土を田に埋める作業。松根油採りのための松の根掘り。朝日が昇ってから夕日が沈むまで、少年に は過酷な毎日だった。特攻部隊が飛び立つ時には滑走路の両側に並び、「帽振れ」の合図で機影が雲の向こうに消えてい くまで帽子を打ち振った。

 間山に突然、田鶴浜行きが命じられたのは七月の終わりごろだった。能登半島の新たな防空拠点「伊久留(いくろ)飛行 場」をつくるため、と上官から聞かされた。

 間山があこがれ続けた特攻基地の小松にはこのころ、ペンキで真っ黒に塗られた数十本の丸太が滑走路の両側に立て られていた。もはや十分な対空砲火などない小松海軍航空基地は、米軍の空襲におびえ、偵察に備えて、せめてもの擬装 を凝らしていたのである。

 「こんなことをしているようじゃ、もう日本はだめかもしれない」。小松を後にした軍国少年間山の頭をかすめたのは、まさ かの敗戦の予感だった。(文中敬称略)




いよいよお役に立つ時が参りました

石川と特攻隊とのかかわりは小松海軍航空基地のみにとどまらない。一九四五(昭和二十)年一月十三日朝。海軍上飛曹 坂江幸信の留守を預かる家族の視線は、北國毎日新聞(現北國新聞)の一面にくぎ付けとなった。「日の丸の鉢巻を結び 合い敵撃滅を誓う神鷲達」という説明付きの大きな写真の真ん中に、笑顔で同僚に鉢巻を結う幸信の姿があったからだ。 父又吉はこの時まだ、幸信が既に一カ月前、南海に散ったことを知る由もなかった。

 子供のころから親に逆らったことのなかった幸信がただ一度、我を通したことがあった。金沢三中在学中の四一年九月、 親に内緒で海軍甲種飛行予科練習生を志願したのだ。家族には一次試験に合格した後、このことを打ち明け、許しを請う た。そして、金沢出身者としては初めての特攻隊員になった。

 運命の四四年十二月十六日。幸信は第十次神風特攻隊金剛隊の一員として爆撃機「彗星」に搭乗し、二機の僚機ととも にフィリピン・ルソン島の海軍マバラカット基地を飛び立ち、同島のサンホセに停泊中の敵艦群に突っ込み、散った。

 兄に先立たれた幸信には十三間町で刀剣商を営む父又吉、母たつと、三人の姉、一人の妹がいた。長姉千恵子が息せ き切って家に駆け込んできたのは北國毎日新聞が幸信の写真を掲載した日の午後だった。

 「お父さん、大変や。幸信が出撃したみたいや」。

 千恵子はこの日、片町の金沢東宝にニュース映画を見に出掛けていた。上映中の日本ニュース「金剛隊の出撃」の中で 幸信がさっそうと立っている場面を見つけ、家に飛んで帰ったのだ。弟の死を悟ったからか、感激からか。家に駆け込んだ 千恵子は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 「本当か」。又吉は千恵子に手を取られ、一家ともども金沢東宝に向かった。スクリーンに大写しとなったのは神鷲と化し た幸信に違いなかった。享年二十歳。予科練入りを認めた日から、この瞬間を覚悟していたとはいえ、フィルムが回る無機 質な音を聞きながら、又吉は唇をかんだ。

 坂江幸信が父母にあてた遺書がある。

 父上、母上様

 先日は突然幽霊の如く訪れ致しましたにも拘(かかわ)らず、御馳走(ごちそう)に次ぐ御馳走、心から感謝致し居ります。 何もかも皆夢見る心持にて無事隊につき、はじめて家にも帰つたのだと云ふ気がします。近所の人々の御厚意、旦々有難 く喜んで居ります。皆様の御機待(ごきたい)に沿ふべく大いに努致す覚悟で居ります。

 父上母上、お喜び下さい。今度こそいよいよお役に立つ時が参りました。生来二十年、心配を掛け、或(あるい)は苦労を かけ、何一つとして父上母上のお心をなぐさむ事もなさず、海山の御恩萬々承知の上とは云へ、成すを得ず残念に思ひま す。今度私は特別攻撃隊に編入、再び第一線基地に向ひます。

 男子の本懐、又、父上母上様への万分の一の御恩返しと思ひ心から喜んで居ります。兄さんの云葉(ことば)、今更なが らひしひしと胸にとなへ、感慨無量です。家継の大役ある身ながら、我々若い者が戦はなくては外に誰も戦ふ者なく、男子 を生める母我が子であつてすでに我子にあらざる者と思ひ下さる様、私とて既にお國に捧(ささ)げた身。陛下の御旗の本 大君の為、國の為、若櫻として散り行くも、何等くゆる所更になく、男子の面目と思って居ります。

 死を忙(いそ)ぎは致しませぬが、女々しき振舞など決してなさず、惜しき人間と云はれるほどに大いに頑張る覚悟です。

 事新しく、遺言とは申しませぬが、此(こ)の覚悟、常になくてはと思ひ右したためました。

 家の事は父上母上様よろしき様、和子に養子を向へられるでもよし、都合よき様お願ひ致します。

 「香んばしき 櫻となりて 勲(いさお)しを 永久にのこさむ 南海の空」

 「羽二生等が 待ってゐるだろ 九段坂」

      幸信作

 へへ…仲々うまいものでせう。姉ちや兄ちやん等と競走をやつたのを思ひ出します。(原文のまま)(文中敬称略)





適正と技量見抜き一線へ

 海軍小松航空基地に特攻隊「神雷部隊」が移ってきた一九四五(昭和二十)年春。金沢市出身の田中喜作はそのころ、 海軍航空隊厚木基地で若い海兵に最新鋭の爆撃機「銀河」の操縦を教え込んでいた。二十四歳の分隊士だった田中に は、一人ひとりの適性、技量を見抜き、一人前のパイロットを戦地に送り込む任務があった。田中のもとで訓練していた海 兵の中に、知人の弟が一人いた。

 田中には、真珠湾攻撃から二日目の四一年十二月十日、索敵機を操縦し、マレー沖で英国東洋艦隊が誇る不沈戦艦 「プリンスオブウェールズ」と「レパルス」を発見、撃沈につなげた武勇伝がある。マーシャル群島に夜間雷撃した四三年十 一月十九日には、敵艦から一斉射撃を受け、操縦していた爆撃機が海中に墜落。海中で意識を失ったものの、ミレー島に 駐留していた日本軍に助けられ生還した強運の持ち主でもあった。

 厚木基地には、小松をはじめ、各地の部隊から補充要員を求める矢の催促があった。田中は上官から訓練生の習熟度 の報告を求められていた。田中が合格と認めれば、訓練生はほぼ一週間以内に各地の部隊に配属され、特攻隊を志願し た。

 田中が四〇年、千葉県の館山航空基地に配属されていた当時、極東五輪の水泳で銀メダルに輝いた葉室という上官に 水泳を教わったことがある。部下に知人の弟がいたというのは葉室の弟のことである。田中は葉室の合否判定のところに 来ると、迷いに迷った。

 「判を押せば合格だ。合格で特攻に志願すれば死が待っている。優れた技量を持つ葉室を不合格とする理由が見当たら ない」。考えれば考えるほど、葉室を不合格とすることは不合理なことであった。目を閉じれば、弟とうり二つの兄面影が浮 かんでは消えた。

 田中は覚悟を決めてペンを執り、真っ白な便箋に葉室の名前を書き込み、「訓練飛行の結果、操縦員として認める」と書 いて判を押した。合否判定を求められてからここまでに、一週間を費やしていた。合格書類を一週間延ばすことが、田中の 精いっぱいの恩返しであった。間もなく葉室は転勤命令を受け、配属地へと飛び立った。田中は戦地に赴く葉室の無事を 願わずにいられなかった。

 最初の特攻隊「神風特攻隊大和隊」の零戦一機がフィリピンのマバラカット基地を飛び立ったのは四四年十月二十一日。 風雲急を告げる戦況にあってなお、私情と任務のはざ間で苦悩した田中−。

 昨年暮れ、田中は葉室が出征せず、無事除隊したことを伝え聞いた。さっそく博多で闘病中の葉室のまくら元に電話し、 五十六年間、胸に秘め続けた葛藤(かっとう)を告げた。「そんなことがあったのですか」。笑い飛ばす葉室の声を聞き、田 中は心が少し、軽くなったような気がした。(文中敬称略)




「生きて帰ってきたぞ」

 雲の切れ目から小松飛行場独特の十字滑走路がのぞいた。終戦の詔勅から三日後の八月十八日。一式陸上攻撃機 で、神雷部隊七〇八飛行隊長、二十五歳の八木田喜良の操縦かんを握る手が震えた。

 「生きて帰ってきたぞ」。八木田の脳裏には、金沢市材木町の実家で待つ二十歳の妻の顔が浮かんでいたかもしれない。 一年前の八月二十日、結婚式を挙げたばかりの妻は、十月に生まれることになる新たな命を宿していた。

 八木田が玉音放送を聞いたのは朝鮮半島、日本海に面する迎日基地だった。司令部は「小松も空襲の恐れあり」と判 断。延長千五百メートルほどの滑走路を持つ迎日基地に神雷部隊の一式陸攻二十四機を退避させよとの命令を発し、ま ず八木田が四機を率いて七月から駐機場整備の任務に就いたのである。小松海軍航空基地から人間ロケット「桜花」を搭 載する一式陸攻の出撃は、六月二十二日を最後に途絶えていた。

 ほんの一時の静けさが広がっていた神雷部隊に衝撃が走ったのは、八月九日のソ連参戦だった。迎日基地の八木田の 部屋には、若い通信士が一通の機密電を手に慌てて駆け込んできた。「ウラジオストックを爆撃せよ」。

 しかし、小松から迎日基地に立ち寄っていた一式陸攻の燃料の蓄えはウラジオストックまでに換算すると一往復半しかな い。しかも、積み込むべき二百五十キロ爆弾もなければ、六十キロ爆弾も二十ミリ機関砲の弾丸さえも尽きていた。

 そもそも、八木田の一式陸攻は、桜花を積む改造が施してあり、爆弾を搭載できないことは司令部も分かっているはずだ った。八木田が九州の司令部に「出撃は不可能。爆弾、燃料を補充する必要あり」と意見具申すると、そのまま計画は立ち 消えになった。

 小松に戻った八木田は、柴山潟を臨む台地の兵舎に押し込まれ、気が抜けたようだった。

 小松から飛び立っていった大勢の仲間や部下が「特別攻撃」の名のもとに死んでいった。このころ八木田が何度も思い出 していたのは、同じ神雷部隊に所属した海軍少佐野中五郎がしみじみ語った言葉だった。「クソの役にも立たない自殺行 為に、多数の部下を道連れにすることはたえられない。たとえ国賊とののしられても、桜花作戦を断念させたい」。

 野中は楠木正成の故事にならい「湊川だな」と言い残し、敗戦の年の三月二十一日、鹿屋基地から第一回神雷部隊の特 攻出撃に飛び立ち、南九州の海に散った。野中が操縦する一式陸攻は胴体下に「桜花」を抱えたままだった。

 広い靖国神社の境内に八木田が気に入った場所がある。「神雷桜」と呼ばれる桜がそれだ。出撃命令が下らず、生き残 った神雷部隊の隊員たちが終戦後、植えた。毎春、人間ロケット「桜花」の灰色の機体に描かれていた桜と同じように、くっ きりとした花をつけるという。(文中敬称略)






第七〇八飛行隊、通称「輝部隊」。攻撃機「一式陸攻」に一人乗りのロケット爆弾「桜花」を搭載して、
敵艦船に体当たりする特攻隊で、同隊に戦闘機隊などを加えた総称を「神雷部隊」と呼んだ。



攻撃708飛行隊の一式陸攻
昭和20年4月12日、第三次桜花隊攻撃に向かう「721-K05」






小松基地 攻撃708飛行隊
「剣号作戦」への参加のため小松基地を離れる前に撮影された写真。





1945年7月、小松基地に移転してきた神雷部隊の桜花隊。
「岡村一家」とは岡村基春が司令官である神雷部隊を意味する。










桜花隊士官。安宅神社?
小松基地では沖縄県が米軍に占拠された7月以降、
燃料の不足から飛行訓練は行われなかった。
隊員たちはつかの間の安息の日々を小松で過ごした。


『難関突破』祈願で有名な安宅神社。





小松基地に移動してきた桜花隊士官。
造り酒屋を営む松村長五郎宅に下宿していた。








安宅海岸と思われる。


安宅海岸






昭和19年11月、小松基地での事故
定着訓練中の豊橋空の一式陸上攻撃機24型が右エンジンより発火、
急ぎ滑走路から外れて停止し、機長の一宮栄一郎少尉(予備13期)以下搭乗員は
脱出し無事だったが、機体は全焼した。
















神社澄(かんじゃきよし)一飛曹(丙14期)

小松基地で終戦を向かえ、復員途中に観音寺基地に立ち寄ったと推測される。
7月に自ら空輸して以来、観音寺基地に隠ぺい放置されていた零戦に乗り、神雷部隊解散から
二日後の8月24日、岡山県倉敷市にある実家に向かい、上空を20分ほど旋回したあとに先祖の
墓のそばにある水田に墜落した。覚悟の自爆だったのか、機材故障によるものかは分からない。


















〜参考文献〜
『粟津海軍飛行場』『小松の空』(住田正一)
『小松市 串町史』
『防人たちはいま』(北国新聞社:昭和56年3月発行)
『海軍神雷部隊』(海軍神雷部隊戦友会:1996年3月発行)
『極限の特攻機 桜花』(内藤初穂:1999年3月)
『太平洋戦争最後の証言 零戦・特攻編』(門田隆将:2011年)
『神雷部隊始末記』(加藤浩:2009年)
『一白町の歴史』(加賀市一白町史編纂委員会2009年)
北国新聞朝刊連載『雲の彼方に・小松神雷部隊の記憶』(2001年8月14日〜18日)







石川県 小松市 
小松だよ!全員集合!! 
Produced by わかすぎ& 在郷Bros.




トップへ



戻る
戻る
直前のページへ
直前のページへ


Copyright(c) 2006-2016. 小松だよ!全員集合!! All rights reserved. 
inserted by FC2 system