小松の空 〜小松飛行場物語〜


石川県 小松市

小松飛行場の歴史




小松空港の秋
(RW06 JAL B-767)




最終更新日:2015/02/21



小松飛行場の歴史

History of Komatsu Airport


小松空港RW24にて。
左から、AIR DO、新田原基地のアグレッサー部隊のF15、格納庫は小松基地のスクランブル機。

※ 小松飛行場は、小松基地に民間機が乗り入れている共用空港です


 石川県の小松空港は正式には「小松飛行場」と言います。航空自衛隊小松基地に民間機や外国機が 飛来する共用空港であり、自衛隊といえども軍事基地に民間機が離着陸をする空港は世界的にも珍しい らしい。

 小松市で生まれ育って、小松空港は自分の地元空港だという、おらが村的なアイデンティティはあって も、あまりにも身近すぎて小松空港のことは実はよく知らない、小松市民の多くはそうなんじゃないでしょう か?

 かくいう私も、最近初めて一眼レフカメラを買って何も知らないまま小松空港に通い、インターネットで飛 行場のことを調べたり、航空無線をかじってみたりして、航空ファンの真似事をしてみて、小松空港のこと をほんの少しだけ理解できるようになりました。
 飛行機の種類や機材など、現在の小松空港についても少しは理解したつもりですが、では、なぜ小松 市に小松空港(基地)があるのか?、小松市に史上初めて飛行機が飛来したときのことを知っている か?、小松飛行場の記念すべき出来事や悲劇的な事故など言ってみて、と言われれば「地元民ですが、 ぜんぜん知りません」という状態です。

 小松空港(基地)の歴史、小松市との関わりを知って、小松空港(基地)の今後の発展やあり方を考え てみる機会となればと思います。

大惨事事故からちょうど46年目の冬に、金沢市の事故現場を訪問してきました。

小松基地のF-104J、住宅地に墜落事故!!!

1969年2月 8日
民間人4人が死亡した自衛隊初の大惨事事故!!

2015/02/08 更新!!






小松飛行場 【戦前〜太平洋戦争】
1913年(大正2年)〜1945年(昭和20年)

・小松市に史上初めて飛行機が飛来した日。
・小松海軍基地建設
・太平洋戦争、神雷特攻隊。
・終戦、日本国籍機の飛行禁止

小松飛行場 【1945年〜1955年】

・小松飛行場、米軍に接収
・朝鮮戦争中、米軍のレーダー基地となる
・小松飛行場全面返還

小松飛行場 【1959年〜1965年】
・小松基地開設
・F-86F配備
・滑走路延長工事

小松飛行場 【1965年〜1974】

・小松基地F‐104Jの事故が多発。
・金沢市の住宅地に墜落、市民4名死亡事故発生。
・民間機のジェット機化

小松飛行場 【1975年〜1984年】
小松基地爆音に関する「10.4協定」
・F-4EJファントム配備。
・第303飛行隊、第306飛行隊編成
・ジャンボジェット機が就航
・小松基地騒音問題で国と10.4協定締結

小松飛行場 【1985年〜1994年】
・F-15Jイーグル配備、第303飛行隊がF-15に機種切替
・ジャンボ機が就航

小松飛行場 【1995年〜2015年】

・カーゴルックス航空(国債貨物の定期便)就航









北陸20世紀“特派員”「小松海軍航空基地」(昭和18−20年)
1999年08月08日(日) 北國新聞朝刊


大軍都の夢、「基地の街」の原型に、南海に散った若者見送る

 ギリシャ神話のイカロスの時代から、大空への憧れを抱きつづけた人間は、二十世紀初頭、ライト兄弟が世界最初の動 力飛行を成功させた。北陸の人々も世紀の発明を熱狂して迎えたが、皮肉にもそれは兵器として目覚ましい発達をとげ、大 戦では飛行機の数と質が勝敗を分けた。敗色が濃厚となった戦争末期、小松に建設された飛行場に、大軍都への夢を抱 き、短い生の輝きを確かめようとする若者に人々はひたむきに尽くした。五十余年前、南海に消えた若者は、北陸の空の 玄関の扉を未来に向かって押し開き、基地の町の基礎を形成した。

 小松市に飛行機が初着陸したのは、大正六年八月のことである。着陸場となった能美郡御幸村(現小松市青路町)にあっ た陸軍馬政局石川県種馬所の畑に、六キロ離れた小松町から来た児童や多数の観客が詰め掛けた。

 爆音を響かせて姿を現した布製の二枚の翼を重ねた「モ式四型複葉機」の着陸の様子を、創刊二十四年目の北國新聞 は「プロペラーの音勇ましく種馬所の空を望みて進行するにぞ、ソラ飛行機が来た、と町民の老いも若きも一斉に街路に飛 び出し、アレヨ、アレヨと喝采するなか…、地上を滑走すること約十米にして無事着陸したる」と描写している。

 その後、種馬場は県に移管されるが、敷地の一部が神戸市の川西飛行機製作所の所有として「川西牧場」となり、製作し た機体の試験飛行を兼ねて、頻繁に飛行機が飛来した。

天然の迷彩、最適位置

 川西牧場から北、日本海に至る平野は、砂丘と松林が日本海に並行してどこまでも続く典型的な浜手の地形で、地元民 は「むじなが浜」と呼びならわしていた。昭和十六年末、この浜を、農地開拓営団が食糧増産を目的に伐採と砂原整地を開 始した。ところが、十八年、にわかにこの地を海軍飛行場建設にあてる構想が打ち出された。

 今日、日本海と加賀三湖にはさまれ、霞ケ浦と同様の天然の迷彩があり、保養地の温泉場も近く、日本海の対潜哨戒基 地として最適位置である―などの理由が研究者によって指摘されているが、防衛庁防衛研究所に残る海軍航空本部作成 の「昭和十三年五月二十一日の航空兵力補充増勢計画打合覚」、同十六年九月の「航空兵力増勢計画実行案摘要」にも 「小松」の名が記され、昭和初期から、基地候補に上がっていたふしがある。

 また、昭和三十五年、航空自衛隊小松基地の起工式で和田傳四郎市長は、同十六年末、開拓地を双眼鏡で眺めた竹下 勇海軍大将が、同行の山口又八小松市長と、当時議長だった和田に「海軍の飛行場にぴったりの場所だ。市長さんも議長 さんも、後々協力を頼みます」ともらしたと語っており、航空兵力増強を図る海軍が小松に注目していたことは確かである。

 十八年四月、開拓地に舞鶴鎮守府小松飛行場建設事務所が建てられ、坪二十六銭で買い上げられた土地では当時の 中学生、市民、囚人まで加わり、二十万人の労力をつぎ込んだ建設作業が昼夜兼行で進められ、十九年十一月、東西千 五百メートル、南北千七百メートルの十文字に交差する滑走路が完成したのである。

 一方、和田は建設が進む基地をみながら、別の夢を抱いていた。周辺の村を編入して軍事施設を呼び込み、人口五十万 の大都市を目指す構想である。


神雷部隊の進出

 第九師団を擁する軍都・金沢への対抗心もあり、海軍の求心力を最大限に利用しようと、山口市長を説き伏せた和田は 「ウラの市を海軍様の準鎮守府にしてくだされ」と、海軍舞鶴鎮守府で熱心に訴えた。

 軍都となりうる基盤もあった。海軍航空隊の整備員として転戦し、戦後は小松市の航空史を研究してきた住田正一さん(7 4)=小松市高堂町=は、当時のハイテク技術を駆使した飛行機を整備する優秀な技術者が海軍に必要だったとし「織物 に代表される北陸の工業地帯だった小松には、手先が器用な人が多く、飛行機に対応できる土地がらだった」と指摘する。

 加賀市一白には甲種飛行予科練習生の操縦教育機関「小松海軍航空隊」、小松市遊泉寺町には石切り場跡を利用した 軍需庫、航空機部品製造場が置かれ、軍都計画は現実のものとなるかに見えたが、その夢を追い越すように米軍の侵攻 は早く、小松の後方基地としての戦略的価値が高まっていく。

 連合艦隊が壊滅し、日本の敗色が濃厚となった昭和二十年四月、小松基地に第七二一航空隊「神雷部隊」が進出した。 有人ロケット爆弾「桜花」を主兵器とする特攻部隊で、小松には母機の一式陸攻の搭乗員が移り、日本海上空で訓練を行 い、最前線である鹿児島県鹿屋へ出撃するのである。

 当時、鹿屋基地で神雷部隊の指揮をとっていた第七〇八飛行隊長八木田喜良さん(79)=金沢市新保本一丁目=は、 克明なメモを手に悲劇を語る。「十機出撃したら一機帰ってこれるかどうか、というところだった」。一式陸攻は桜花投下後 の帰還が了解事項だったが、米軍の優秀な戦闘機群と艦隊防空システムにはばまれ、鈍重な親子飛行機が生き残れる確 率はほとんどなかった。陸攻搭乗員も「命名されざる特攻隊」(八木田さん)だったのである。

 それでも、神雷部隊は追いつめられた日本海軍の切り札として、九州、沖縄海上の米艦隊へ戦いを挑み続けた。八木田 さんは、鹿屋基地の壕内通信室で、特攻機が敵艦に突入する際に発する電波を幾度も聞いた。「長いツーがしばらく聞こ え、不意に切れる。隊員がこの世から消えた時です。敵艦に当たったか、海へ落ちたかは分からないが、彼らの最期の咆 哮を聞くのはつらかった」と涙を浮かべる。


隊員との交流

 隊員の悲劇性のゆえか、市民は国に殉じようとする若者を安宅、日末、串町などの学校、民家、寺院などに分宿させ、あ たたかくもてなした。串町の光玄寺もその一つである。佐竹圓祐前住職は、昨年夏、北國新聞の取材に「本堂前で出撃命 令を受け取った隊員はね、前夜に宴会を催して、楽しげに名残を惜しんでいました」と、隊員の素顔を語る。

 串町には、隊員が作詞、作曲、振り付けをしたとされる「串町音頭」が五十四年後の今に伝わっている。「ハアー 串の娘 さん 郷土の職場 朝の早ようからヤレサヨー 機を織る」。どこか、日光和楽に似た旋律は、栃木県出身の隊員が同町青 年団とともに手がけたという。同町民図書館長中村哲夫さん(71)=同町=は、「出撃すればほとんど帰ることのない若者 は、短い生の実感を、地元民との交流に見いだしていたのでしょう」と振り返る。

 昭和二十年八月十五日。終戦の詔勅を小松基地で聞いた神雷部隊は、二十二日、飛行場で全隊員による解散式を行 い、陸攻に便乗し、それぞれの故郷へと向かった。

 その後、小松は米軍の補助レーダー基地、さらに航空自衛隊第六航空団、民間空港として発展を見せた。空の果てに消 えた若者たちは今日、北陸の空の玄関として繁栄する小松の下地を作ったと言えるだろう。

 「彼らが乗った緑色に真っ赤な日の丸の飛行機はね、出撃すると必ず、寺の上空で旋回してくれてね、南の空へ消えてい きましたよ。いつまでも手を振っていたっけ」。そう思い出を語った佐竹前住職も、先月三十一日、天寿を全うして、散ってい った若者の待つ冥府へと旅立った。歴史の生き証人がまた一人、消えた。

神雷部隊

 昭和十九年十月、茨城県百里ケ原海軍基地で第七二一航空隊として開隊。同十一月に同県神ノ池基地に移転し、「神雷 部隊」を名乗った。

 ロケット推進式の有人飛行爆弾「桜花」を、双発の大型攻撃機「一式陸上攻撃機」の胴体下に吊るし、敵艦船上空で切り 離して、操縦しながら体当たりする。桜花隊のほか、一式陸攻の七一一、七〇八飛行隊、掩護戦闘機の三〇六、三〇七飛 行隊、彗星艦上爆撃機隊などで組織された。

 昭和二十年三月二十一日、鹿児島県鹿屋基地から初出撃、以降は主力を小松に移し、沖縄の米艦船への特攻作戦「菊 水作戦」に参加した。出撃は十回百七十四機(桜花七十六機、陸攻七十九機、戦闘機十九機)で、未帰還は百二十三機四 百四十人。戦闘機での特攻も加えると、同部隊で海軍特攻未帰還の四割を占めた。




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