小松の空 〜小松飛行場物語〜


石川県 小松市

小松基地周辺爆音町 浜佐美町




小松市 浜佐美町
現在、住民いません。集団移転したからです。






浜佐美町分教場跡
昭和37年1月、小松空港ジェット基地化の補償として、防音校舎を建設。
昭和42年3月、浜佐美町の集団移転のため廃止。








小松市浜佐美町
F86F → F104へと機種変更するときに、滑走路が2400m→2700mへと延長されました。




小松市 浜佐美町『浜佐美町誌』から小松基地のくだりを読む。

こまつし はまさみまち

 佐美(佐美町)の枝村として、日本海岸近く浜地にできた集落であるがゆえに「浜佐美」と称している。

 藩政の初め頃に、越前の米納津から飛砂に追れて、また一説には、 松平忠直の乱行を避けて米納津の海岸によく似た この地に移住したという。

 万治三年(1660)大聖寺領佐美の枝村であった。
 天保二年(1831)に村御印が交付され独立した村として認められ、肝煎役は文化13年より市兵衛が勤めていた。
  明治22年末佐美村字浜佐美、明治40年御幸村字浜佐美、 昭和15年12月1日より小松市浜佐美町となった。その後、 航 空自衛隊小松基地のジェット機騒音にこらえ切れず全町が集団移転をしている。

 昭和49年4月15日を以って浜佐美町は110年の歴史を閉じて新たな、現在の浜佐美本町として開町したのである。




小松飛行場と浜佐美町

 日末町の北方、今江潟と日本海に挟まれた砂原と松林との土地は、秋ともなれば椎茸狩りの人々で賑わっていたが、非 常時(※太平洋戦争勃発)が叫ばれ臨戦体制が進められるにつれて、平和な松林の姿で続くことは出来なくなった。
 昭和18年4月には舞鶴鎮守府管下の小松飛行場建設事務所が設けられて、各方面から動員された人々や学徒によっ て、飛行場建設が進められて行った。
 そうしてこの周辺の各地に中島航空の分工場が設けられたり、柴山潟ほとりの開拓地は予科練の基地になっていった。  浜佐美には直接関係はなかったが、軍の方針に反対することも出来ず土地の買上げ価格は坪当り26銭といった有様で あったと聞いている。戦況が悪化されると共に囚人もかり出されて飛行場建設工事が昼夜兼行で続けられ、浜佐美の高間 (タカマ)にはその飯場も出来たくらいである。

 昭和19年7月には、南北の滑走路の工事がほぼ出来上がり、9月には豊橋の航空隊から空襲をさけて飛行機が退避して 来るし、11月に滑走路の完成と共に、攻撃隊が二隊常駐することになった。
 昭和20年にサイパン島が陥落し米軍の沖縄進攻、本土空襲が激しくなるにつれ、各地の飛行場からの飛行機も増加し、 3月には神雷特攻隊の基地ともなった。
 約1億円の建設費、延べ20万人の労力で、2本の滑走路と20余個のコンクリート製の飛行機退避壕や各種の施設をつくっ たのであったが、昭和20年8月15日の終戦により(旧海軍航空隊)小松基地はなくなった。

 その後、小松飛行場は財務局で管理されていたが、米軍の飛行基地として使用されることになり、昭和22年3月には、逓 信省航空保安隊の出先として、小松飛行場工事事務所が開設され、同年秋までに東西1500m南北1700mの滑走路が整 備された。
 昭和28年から日本国民も空を飛ぶことが許されたので小松飛行場は日米共同管理となり、5月には北陸航空も誕生し て、29年11月から日本国籍機の姿もここに見受けられるようになった。次いで30年7月には、大阪からの民間航空路も開か れ、ついで名古屋〜小松間の航空路も開かれて、飛行場の利用も活発になった。

 一方、自衛隊ではここをジェット戦闘機の基地にしようと計画を立てたのは、昭和31年4月からであったが、これによって 次第に賛否両論がおこるようになった。特に昭和33年2月19日に米軍が正式に小松飛行場を日本に返還してからは、ジェ ット基地問題は県議会や小松市内でも論議されたが、中央で防衛庁と運輸省との間で基地と民間空港併用の協定が出来 たので、同年9月6日に和田市長は県に対して、小松飛行場は同市議会・商工会議所並びに周辺の住民など、市民の意 向として自衛隊の航空基地と民間航空施設を併置する政府の計画と協力すべきである″と申入れて善処方を要望したの であった。

 小松飛行場設置促進期成同盟が10月14日結成された。ジェット基地誘致の署名運動を始めるし、これより先につくられ ていた小松飛行場ジェット基地反対同盟はこれまた署名運動や基地反対運動を盛り上げる等対立した。こうした中で、11 月18日に周辺の日末・佐美・松崎・安宅新・草野・浮柳・鶴ヶ島・向本折などと共に9町で結成されていた『小松飛行場対策 協議会』の役員等が浜松基地等を視察した。

 昭和34年3月6日に開かれた第7回国有財産北陸地方審議委員会では、小松飛行場を自衛隊に一時使用を認めたので 同年12月4日に33ヶ条の補償要求事項を付して約定書に調印した。


   三十三ヶ条の補償要求項目について浜佐美に関係したものを拾ってみると次の通りである。


三、音響のとくに甚だしい民家に対する防音装置

四、日末小学校は飛行場建設の着工と同時に鉄筋コソクリートの校舎を新築し、完全防音装置を 施工

八、将来飛行場の拡張により耕作地の買上げ、またほ一方的価格による強制買上げ、もしくほ永 久的耕作権の権利取上げをしない

二一、墜落その他の事故による民間の人畜や被害物件にたいする即時完全補償の確約

二二、飛行中、学校・工場・民家、とくに市街地上空の通過をさけること

二四、漁業・家畜・農作物の実害に対する完全補償(ただし被害調査には地元民を参加させる)

二六、部隊必需品の地元調達

二七、航空国民間要員の地元民優先

二八、飛行場周辺の電話局を小松局に統合する

二九、安宅港の完成促進

三〇、用地買収代金などすべての補償にたいしては、国・県・市税を免除すること

三三、飛行場周辺地区の道路はつぎの通り拡充整備すること
  6 浜佐美から佐美にいたる市道の拡張・舗装
  9 安宅から浜佐美町にいたる県道を観光道路としての整備舗装
  10 浜佐美から日末小学校の通学道路新設



   こうして補償項目を入れて、ジェット基地を承認する仲間に入っていた浜佐美町が、後に、ジェット機の騒音にこらえ切 れず、また、墜落事故をおそれて櫛の歯の抜ける如く離町する家庭が続出し、このままでは浜佐美町の破滅を来たすこと を恐れて集団移転にまでふみ切り、先祖伝来の土地を捨てざるを得なかったことに関しては、国当局はどのように考えてい るでろうか。それにしても、何と皮肉な運命のめぐり合わせと言わなければならない。



現在、小松空港滑走路の加賀市側エンド(RW06)は、
戦闘機や民間機が頭上を離発着していく小松市の見学スポットですが、
かつてここには浜佐美町の集落がありました。


浜佐美町、集団移転



 昭和32年4月12日米軍横田基地の司令より、5月末日で小松飛行場を日本政府に返還し、速かに正式引渡し調印を行い たいと申し入れがあり、昭和32年7月15日、12年にわたる米国の管理より日本の飛行場となった。
 小松飛行場を防衛庁のジェット基地化する構想は昭和30年に端を発し、日本政府へ移管されてから賛否両論は年を追っ て激化していった。

 昭和33年3月17日、飛行場周辺9ヶ町(日末、佐美、浜佐美、松崎、向本折、草野、浮柳、鶴ヶ島、安宅新)により組織され た「小松飛行場対策協議会」(会長、宮埜茂)は20数回の会合を重ねたすえ33ヶ条におよぶ補償要求書を作成、昭和34年 7月15日宮埜会長は益谷秀次副総理をたずね地元への協力を要望し、同18日防衛庁名古屋建設部を訪れ、33ヶ条文の 要求書を加藤建設部長に手渡して早急回答を求めた。


 『補償要求三十三ヶ条』 (一部抜書)
   提出 昭和三十四年七月十八日
   回答 昭和三十四年十二月四日(カツコ内)

1. 飛行場の民間航空機との共同使用。
  (共用とする)

3. 音響の特に甚しい民家に対する防音装置の施行。
  (法的に不可能なので基地交付金で措置されたい)

4. 日末小学校は飛行場建設着工と同時に鉄筋コンクリートの校舎を新築し、完全防音装置を施 工のこと。
  (努力を約束する)

5. 滑走路延長に伴う必要土地の地元希望価格による買収。
  (地元から和田市長に一任してあるので、今後市長と折衝する)

10. 民間航空機誘導路の整備、ただし南北滑走路は延長しないこと。
  (運輸省と協議して善処する。南北は延長しない)

20. 小松地区代行開拓事業の即時施行。
  (滑走路用地買収後農林省に即時施行を申し入れる)

21. 墜落その他の事故による民間の人畜物件被害に対しては即時完全補償とする。
  (適正早急に行なうことを確約する)

22. 飛行中、学校、工場、病院、民家とくに市街地形成地区の上空通過をさけること。
  (やむを得ぬほかはこれを避ける)

24. 漁業、家畜、農作物の被害に対する補償、被害調査のときは地元被害人を参加させる。
  (権威ある実害調査によって補償し調査には被害人を立合わせる)

28. 飛行場周辺各町の電話局を小松局に統合する。
  (側面から実現に努力する)

33. 飛行場周辺の次の十五か所の道路、橋の改善
  (関係各省庁と合議のうえ努力する)

 浜佐美町から佐美町に至る市道の拡幅と舗装。
 安宅町から浜佐美町に至る県道を観光道路として整備舗装。
 浜佐美町から日末小学校への通学道路の新設。




  かくして昭和35年4月19日基地建設起工式が行われた。荒野に約20億の巨費が投じられ、昭和36年2月1日新装の基 地に「航空自衛隊臨時派遣隊」が発足、空の守りについた。同年6月11日基地開庁式が行われ、7月1日第六航空団が発 足した。


騒音により、住民の不安つのる

 新装された基地は2700mの滑走路が東北−南西に走り、F-86等約70機が配置された。
 ジェット機による騒音の被害は基地周辺の住民生活をおびやかし、市当局、防衛庁へ善処法を依頼する声が相次いだ。

 昭和37年8月22日、当町小川毅氏が「ジェット機の騒音は生活権を大きく侵害している」と金沢法務局へ人権と生活権擁 護の立場から騒音の実態調査を依頼した。同法務局は昭和37年年から38年9月にかけて飛行場周辺の浜佐美、佐美、日 末、浮柳、安宅、安宅新の六町で地元の実情を聞く一方、騒音測定にあたった。その結果、

@ガラス戸がビリビリひびく。
A幼児が寝つかず神経質となって成育が遅れる。
B吐き気をもよおす。
Cラジオやテレビは聞きとれず、特にテレビの画像が歪む。
D沿岸近くは漁業不振となった。
Eニワトリは正常に発育せず死亡率は4倍に増え、産卵率は5〜6割減った。
F民家の壁が落ちる。

などを訴え、騒音の高いことがわかった。
 騒音測定では天気の様子や風で多少の違いはあったが、平均1機の飛行(離陸)で浜佐美95フォーン、日末97フォーン、 安宅新100フォーン、浮柳95フォーン(機数不明)佐美90フォーンを記録、中でも浜佐美では2機ずつ連続して4機が離陸し た時には120フォーンに達した。

 一方基地周辺住民の騒音の被害が続出する中で、ロッキードF-104J戦闘機の配属に伴う基地拡張を巡って、小松市民9 万人は、昭和38年4月の市長選挙と絡んで大きく揺れ動いた。
 浜佐美町内に於てもこの問題をとり上げ、同年8月市当局と小松基地に11項目の抗議文を提出、10月21日当町説教場 で町内総会が開かれ、今後小松市当局と防衛庁へ当町の実情を強く訴えるため、『浜佐美町基地対策協議会』(山口三郎 会長)が結成され、同月30日当町民代表200余人は小松市市公会堂で藤井市長、以下関係委員等と会い吉本清町内会長 が抗議文と当町の反対署名簿(300余人記載)を手渡した。


抗  議  文

一、22条に民家の上空は避けて飛ぶとあるが、浜佐美上空を超低空で飛んでいる。

一、第7条に滑走路の建設方向は地元との約定に違反しないとしてあるにもかかわらず一方的に変更し、 浜佐美町寄りに建設された。

一、これらのことにより騒音が甚だしく、織物、撚糸の工員が来てくれないため操業ほマヒ状態だ。

一、悪条件のため土地、建造物の価格が下落し、売り払って他へ転出しようにもできない実情だ。

一、滑走路の至近地点にある15ヘクタールの農地は墜落の不安で耕作不能である。

一、漁業、家畜業者は騒音でまったく不振となった。

一、子供の自宅における勉強はまったくできない。


など先の基地周辺町内会と防衛庁がとりかわした、三十三ヶ条の補償条件が不履行により発生している被害の具体例を あげた。





浜佐美町集団移転へ

 その後住民の中にも移転を希望する家が続出し、小松基地司令や小松市役所内の基地防衛連絡協議会に実情を訴 え、善処法を申し出たが何ら誠意ある回答を得られず、小川毅、西口嘉昌両氏は金沢弁護士会人権擁護委員会へ人権 の侵害ありと訴えた。人権擁護委員会の総会で現地調査と法的救済を研究することに決定、普森、梨木両弁護士が実情 調査に金沢より駆けつけた。

 名古屋防衛施設局も、ジェット機発着にともなう危険地帯の民家の移転について本格的にのり出し、昭和39年度予算に おいて小松基地で最初に鶴ヶ島中野区の8戸が移転し、翌40年の予算で小川末吉氏、小川剛氏、吉田良穂氏の三戸が当 町で最初に移転が決定、通称日末町西山地区に約2000坪の敷地を協同で確保し、その後10戸の移転者がその地へ移っ た。
 政府もかねてから周辺の基地民生安定を中心に法案作成を急いでいたが「基地整備法案」もようやく日の目をみる運び となった。

 町の総会においても集団移転の議論百出、その結果このままでは町そのものの崩壊に通ずるとの結論に達し、全町民 の総意によって集団移転に踏み切った。移転先も通称ハタケ(浜佐美地籍)へ5戸、関西方面や他の地へ移る数軒をのぞ き、町民のほとんどが一緒の土地に移住することに意を決した。

 その為ぼう大な敷地を必要とし、移転先確保に町内役員一同は全力を傾け、安宅町と草野町の中程に約2万坪の敷地を 求め直ちに宅地造成にかかり、昭和44年より3年間で民家の移転を完了した。八幡神社、説教場等の公共建物も当地に 移され、昭和46年11月より町名も新に『浜佐美本町』が発足した。

 昭和49年4月1日付「広報こまつ」には浜佐美本町:77世帯323人となっている。




浜佐美本町

はまさみほんまち

昭和49年4月19日 開町式










浜佐美本町もうるさいと思いますが、浜佐美町よりましだったのでしょうか?



 小松市草野町の一部へ、元の浜佐美の土地を離れた大部分が集団で移転して新しく誕生した町である。
 昭和45年度予算で小松市か宅地造成をし、2年間で民家移転、昭和49年度までに公共建造物を移転して町が完成、町 名を浜佐美本町とした。機業・撚糸業・公務員・会社員か殆どの現状である。以前の浜佐美と町の様子やら生活様式が変 わり、戸数約60戸で、今後にむかっての第一歩を踏み出した。

 昭和49年4月13日、八幡神社落成ならびに説教場落成式を兼ね開町式が実施されたが、浜佐美の土地に生をうけた者 多数集まり、関係来賓をむかえ、説教場落慶法要、新殿祭、随神序幕式、仮宮よりの遷座祭には御輿を繰り出して、夜町 内をねり歩き、翌14日百数十名の稚児行列が説教場から神社まで行われた後開町慶賀祭が神社拝殿をうめつくした人た ちの見守る中で、建設委員長挨拶、神社、説教場の建設にあたった志賀建設、宅地造成に功のあった小松建設、中沢建 設等に感謝状の贈呈が行われ、市長等来賓の祝辞盛りだくさんの中に執行された。
 午後からの祝賀会には、浜佐美の他を離れて他郷て生活をしている多くの人々も共に相集い、なつかしい昔話しを肴に 酒をくみかわす様は、ここ浜佐美本町とは思われず、共に生きていることを喜び合い、時のたつのも忘れるくらいであった。 夜は昔ながらの輪踊りに、永い浜佐美の伝統をうけついで、浜佐美本町として発足したことの開町を祝い、今後の発展を 祈念するに充分な行事であった。


引用元:『浜佐美町誌』(浜佐美町内会:昭和42年12月31日発行)





















かつての浜佐美集落跡地




小松市から加賀市方面を見る。
直進で加賀市、右折で海岸、左折で墓地、分教場跡を経て、滑走路エンドに行く。




集団移転で、集落跡地にはフェンスが設けられて国有地として管理されている。











かつて集落があったという痕跡は皆無ですが、石垣や慰霊碑がまだ残されています。





戦没者慰霊はそのまま残されています。










左手、防音の分教場跡
墓地が隣にあるjので、てっきり火葬場かと思っていました。

航空ファンにとってはここは滑走路R06の撮影スポットでもあります。




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