小松の空 〜小松飛行場物語〜


石川県 小松市

小松基地にいた特攻隊、第721空『神雷部隊』




昭和20年6月 小松基地で出撃前の訓示を受ける神雷部隊 第708飛行隊員たち

※第708飛行隊は、一式陸上攻撃機に人間ミサイル『桜花』を吊るして飛ぶ部隊です。
特攻員の乗る『桜花」を敵艦近くまで運ぶ任務でしたが、実際には米軍戦闘機の迎撃を受けてほとんど撃墜され、
出撃すれば生還することのない事実上の特攻でした。

一式陸上攻撃機の搭乗員は全部で8名。
正副の操縦員が2人、偵察、電信、攻撃、統制、伝探、そして『桜花』に乗る特攻パイロットが乗る。
母機に人間爆弾を積んで敵艦隊のいるところまで運ぶのですが、敵艦隊のいる付近では、
米軍戦闘機に迎撃されるので、実際は搭乗員全員が特攻に行く状態でした。



出撃前、別れの水盃を交わす。
今の航空自衛隊小松基地、駐機場付近と思われる。

小松基地からの出撃、計9回、60機、戦死者277名。
参考:『防人たちはいま』(北国新聞社:昭和56年3月発行)


最終更新日:2014/06/30

旧海軍小松基地の『神雷部隊』



人間ミサイル、「桜花」を抱えて飛ぶ母機の一式陸攻
 米軍戦闘機に、母機もろとも撃墜されることが多かった。

第721海軍航空隊
〜かつて特攻専門の航空隊が小松基地にいた〜


 『神雷部隊』は日本海軍がはじめて組織した空中特攻(体当たり)専門部隊、『第721海軍航空隊』の通称。
  昭和19年10月1日、茨城県の百里原基地で開隊(一式陸攻、桜花11型)し、 昭和20年7月5日、721空は本部を四 国の松山基地に、主力を小松基地に展開した。


 昭和20年3月21日、鹿児島県鹿屋基地から初出撃、以降は主力を小松に移し、沖縄の米艦船への特攻作戦「菊水作戦」 に参加した。出撃は10回174機(桜花76機、陸攻79機、戦闘機19機)で、未帰還は123機440人。戦闘機での特攻も数える と、同部隊で海軍特攻未帰還の四割を占めた

 終戦時には桜花隊は小松、富高、鹿屋、喜界島に、陸攻隊の攻撃第708飛行隊(隊長八木田大尉)は『剣作戦』基地 (三沢)迎日、小松に、戦闘機隊の戦闘第306飛行隊は、観音寺、松山、富高、鹿屋に、基地隊は迎日、小松、松山、富 高、鹿屋にそれぞれ展開していた。昭和20年7月1日桜花43型装備の725空が滋賀基地で開隊。昭和20年8月13日 射出実験に成功したが2日後に終戦となる。

  




終戦当時、小松基地には二つの攻撃部隊がいました。
1945年4月〜終戦まで、一式陸上攻撃機の部隊である「攻撃708飛行隊」、
7月〜終戦までは人間爆弾部隊の「桜花隊」がいました。

 神雷部隊は、空中特攻(体当たり)専門の特殊航空隊で「第721海軍航空隊」の通称で、昭和19年10月茨城県の百里原 基地で開隊した。

 一式陸上攻撃機が1トン以上もの爆薬を詰め込んだ、一見飛行機と同じように翼がつき、操縦席もある、人間爆弾「桜 花」を腹に吊るし、上空で切り離し敵艦に体当たりする。土壇場に追いつめられた日本海軍の決戦部隊であった。
 昭和20年4月、大分県宇佐基地にあった神雷部隊は安宅小学校や愍念寺を宿舎とし小松基地に移動してきた。その後、 串町光玄寺や付近の民家にかわり終戟となった。

 小松基地からの出撃は早速始まった。出撃前夜に小松をたち鹿児島県鹿屋基地に着く。翌日沖縄方面の敵機動部隊を 目指して発進する。敵の砲弾に傷ついたか、桜花はもちろん、母機の一式陸攻、護衛の戦闘機もほとんど戻らなかった。

 小松からの出撃は合計9回、60機、戦死者277人にのぼった。(この数字は北国新聞社の「防人たちはいま」149頁引用)
 
 なお、串町光玄寺や民家におられたパイロット達のほか、直属の整備隊は日末小学校を宿舎としていた。そのほか犬丸 小学校、串茶屋、今江、安宅にもそれぞれ専門の整備隊が展開していた。また魚雷調整班は苗代小学校、北浅井神社な どに配されていた。

 軍側の求めもあって、地元の人たちは、寺院や学校宿舎とする隊員を温かくもてなした。夕方になると若い隊員が民家で 夕食をごちそうになる姿があちこちで見られ、婦人会の基地や宿舎への慰問も続いた。
 全国の特攻基地がそうであったように、国のために散る若者をいとおしく思い、戦地にいる吾が子等のことに思いをは せ、ひたむきに尽くした市民がいたのである。敗戦まで半年足らず、銃後と基地のささやかな心のかよいであった。そして 何人かの交流が戦後50年たっても続いている。

 この神雷部隊の飛行長で終戦を小松で迎えられた、足立次郎海軍少佐が、「神雷特攻隊始末記」に
「実際に、戦いというものは、若い士官が考えるような、ロマンティックな生やさしいものではなく、まったく悲惨その ものである」と記しておられる。

 また昭和35年4月19日、今の小松基地起工式に当時の和田伝四郎市長は「ジェット基地は、戦争の基地ではない。神雷 特攻隊の二の舞いは、絶対にさせてはいかん」と祝辞を結んでおられる。

いづれも、常に忘れてはならない核心である。

参照と引用:『粟津海軍飛行場』『小松の空』(住田正一)


終戦時の小松基地保有機
昭和20年9月1日現在(海軍省軍務局調)

海軍機 80機
零戦 6機
彗星 1機
97艦攻 7機
天山 2機
彩雲 29機(偵察機)
東海 5機(哨戒機)
96陸攻 9機
一式陸攻 13機
三式初練 2機
93中練 3機
零式練戦 3機

陸軍機 4機
飛竜(爆撃機 ※海軍名「靖国」)













計 84機




串町の光玄寺で宿泊していた神雷部隊の隊員
(元神雷部隊 熊谷市、佐々木勘六氏提供)



小松飛行場指揮所横にて。
(元神雷部隊 熊谷市、佐々木勘六氏提供)




串町光玄寺の山門前で一服する神雷部隊のパイロット。寺の表札が見える。
(元神雷部隊 熊谷市、佐々木勘六氏提供)


「本堂前で出撃命令を受け取った隊員はね、前夜に宴会を催して、楽しげに名残を惜しんでいました」



小松市串町 光玄寺
パイロットの下宿していた寺です。
他にも小学校や民家に下宿していました。

出撃に向かう軍用機がこのお寺の上空を「さようなら」の旋回をして飛んでいったそうです。

七○八飛行隊、特攻の戦友を慰霊、元隊員らが小松市で法要

1995年09月27日(水)北國新聞朝刊

 太平洋戦争で特攻部隊だった七〇八飛行隊(輝部隊)の元隊員や遺族約百三十人が二十六日、小松市 で慰霊法要を営み、亡き戦友のめい福を祈った。

 七〇八飛行隊は昭和二十年四月から八月まで小松基地を拠点とし、鹿児島・鹿屋基地を経て沖縄へ出 撃した。生き残った隊員たちは慰霊法要を昭和五十四年に小松市で営んで以来、二年ごとに全国で続けて きたが、戦後五十年を迎えた今年、再び思い出の地で行うことにした。

 慰霊法要は当時、隊員が宿舎としていた小松市串町の光玄寺で営まれ、飛行隊長だった金沢市新保本 一丁目、八木田喜良さん(75)をはじめ元隊員が次々と戦友の霊に手を合わせた。



特攻機「桜花」に散った命しのぶ、戦後50年、節目の慰霊法要
きょう解散の地・小松市、708飛行隊・元隊長の八木田さんら

1995年09月26日(火) 北國新聞朝刊

 太平洋戦争末期に「人間爆弾」と呼ばれた「桜花」を搭載して鹿児島・鹿屋基地から沖縄へ出撃した七〇 八飛行隊(輝部隊)の飛行隊長だった八木田喜良さん(75)=金沢市新保本一丁目=らが中心となり、飛 行隊解散地の小松市で二十六日、慰霊法要を営む。戦後五十年を経て元隊員や遺族も高齢化しており、 八木田さんらはひとつの区切りにしたいとしている。

 一人乗り特攻機「桜花」の投下作戦は、鹿屋基地で昭和十九年三月二十一日から同年六月まで計十回 行われ、桜花だけでなく、出撃した母機七十八機のうち五十四機が帰還しなかった。八木田さん率いる七〇 八飛行隊は小松基地から鹿屋基地へ展開し、第一回で全滅した七一一飛行隊の後を継いで第二回から十 回までの攻撃に参加した。

 八木田さんら七〇八飛行隊の生き残りは小松基地で終戦を迎え、昭和二十年八月二十二日に解散命令 を受けた。この際、約三百五十人が再会を誓って別れ、その後も有志らで連絡を取り続け、昭和五十四年 に初めての慰霊法要を小松市で営んだ。以後二年に一度、鹿児島や京都、岐阜などを会場に実施してきた が、戦後五十年の節目の年には、ぜひとも小松で行いたいと、開催を決めた。

 法要は約百三十人が参加して、当時隊員が寝泊まりした小松市串町の光玄寺で営まれる。出席者らは法 要のあと、航空自衛隊小松基地も見学する。

 八木田さんは「参加者の多くは七十歳代のうえ、病欠者が目立ってきた。今回か第十回目を数える次回の 法要を区切りにしたい」と話している。




安宅海岸にて
後方に写っているのは、燃料にする流木小屋。整備兵たちは犬丸小学校に宿泊していた。
(提供:元神雷部隊整備兵、新湊市鶴来直孝氏 前列左二人目)






終戦間近、日末小学校にて撮影
この小学校を宿営地にする神雷部隊と向本折女子青年団の慰問のひと時を過ごす。

(元神雷部隊 横浜市 湯浅三郎氏提供)






加賀市柴山町付近で疎開している学童と談笑する士官たち。
後方は柴山潟で二式大艇が見える。
(撮影:神雷部隊戦友会 細川八郎氏)

加賀市の柴山町付近には小松海軍航空隊があり、予科練生や兵士が6000人ほどが暮らしていました。
柴山潟には水上機の訓練基地がありました。

戦後、故郷に帰らず柴山町付近の丘陵地を開拓した隊員たちが作った町が、
現在の加賀市一白町(いっぱくまち)です。
ホテル・アローレのある広大な丘陵地がかつて、予科練のあった場所です。


現在の柴山潟湖畔
(石川県加賀市)

小松基地周辺から片山津にかけて、今江潟と柴山潟という広大な湖があったのですが、
戦後埋め立てて田んぼにしたので、今の小松基地周辺は田んぼだらけです。



小松基地のゼロ戦
神雷部隊の戦闘306飛行隊の零戦と思われる。



2014年現在の小松飛行場と、第306飛行隊のF15J

航空自衛隊小松基地の「第306飛行隊」という名称が同じなのは偶然です。
航空自衛隊の306飛行隊の「3」はF4ファントムを意味していて、その後、部隊をそのまま残して、F15に切り替わったらしいです。




十字滑走路は、風向きに合わせて作ってあるので、飛行機は風の吹く方角に向かって飛べる。
現在の滑走路は、横殴りの風になるような配置だが、戦闘機が小松市街地や住宅地を通過せず、日本海から出入りす ることを考えているから、海に向かって平行に配置してあります。



小松海軍航空基地の建設




 日末町の北方、今江潟と日本海とにはさまれた砂原と松林との土地は、昭和16年末から17年にかけて、食糧増産のた めの目的で、農地開発営団によって、松林が切りとられ砂原が開かれていった。

 実は、この地を飛行場にせんための予備工事、あるいは仮装工事でもあった。 昭和18年4月にほ、舞鶴鎮守府管下 の小松飛行場建設事務所が設けられて、開拓の鍬は建設の鍬とかわり、各方面から動員された人々や学徒によって、 飛行場建設が進められていった。
そうしてこの周辺の各地に中島航空の分工場が設けられたり、予科練の基地になっていった。

ガタルカナル島の撤退、アッツ島に米軍が上陸と、米軍の太平洋進攻がはげしくなると共に、囚人もかり出されて、飛行 場建設工事が昼夜兼行でつづけられた。
串地域では資材運搬のために、粟津駅からの鉄道引込線が敷設され、串川には鉄橋が出来、今江潟沿いに飛行場に 汽車が通るようになった。

昭和19年7月には、南北の滑走路1300mの工事がほぼ出来上がり、9月には豊橋の航空隊から空襲をさけて飛行機がこ こに退避してくるし、2月に滑走路の完成と共に、攻撃隊が二隊常駐することになった。

昭和20年にサイパンが陥落、米軍の沖縄進攻、本土空襲が激しくなるにつれ、各地の飛行場から退避してくる飛行機も 増加した。3月には神雷特攻隊などの基地となって、ここを飛び立った隊員が、九州の基地を中継して沖縄の海に散った のであった。

約一億円の建設費を投じて、延べ20万人の労力で、二本の滑走路と20余個のコンクリート製の飛行機退避壕(掩体豪) や、各種の施設をつくったのであったが、8月15日の終戦となった。
約100万坪の敷地の真中に、十字に交差する滑走路その他を残して、小松基地はなくなってしまった。

 串町地内に残されていた汽車道は、その後、航空自衛隊小松基地の燃料輸送管が埋没され、粟津駅と飛行場や北陸 道小松インターを結ぶ重要道路として交通量も多くなっている。

 串町光玄寺にほ、この神雷特攻隊々員、数十名が宿泊して、ここから小松基地へ通っていたのである。
 その間、町民との交流もあり、特に隊員数名が作詞・作曲・振りつけをした舞台締り「串町音頭」がある。明日か明後日 か、出撃すれば体当たり玉砕することに運命づけられている若い隊員たちは、いつ下るか出撃命令、それを待ちながら 夕べの一刻を町の娘さんたちと踊りを教えたり、教えられたりしながら過ごした。
僅かな喜び、楽しみを味わっていたのである。

「串町史」参照




〜余談〜

小松基地の特攻隊教官が終戦後、郷里で自爆

「倉敷市史」には、海軍小松基地で特攻隊の教官だった方(神社澄・かんじゃきよし氏)が、終戦直後に郷里で自爆飛行を したことが書いてあるそうです。小松基地から岡山県へと同郷の仲間を乗せて帰郷したあと、再度飛行機に乗って実家の 上空を旋回して墓地付近の田んぼに向かって激突死されたということです。

詳細はこちらのサイトでご覧下さい。



戦後、生き残った隊員たちは帰郷せずそのまま小松市で過ごした方も何人もいたようです。

予科練のあった加賀市一白町付近は、戦後帰郷しなかった予科練生や神雷隊員たちが住み着いた町とも言われていま す。
那谷町の町史を読んでいたら、小松で所帯をもって暮らしていた元隊員の方が、戦後10年経ってから自殺されて、母子 家庭で育てられた、という話が書いてありした。
戦争が終わっても特攻で生き残った方には複雑な思いがあったようです。






加賀市新保町。
海軍小松飛行場の建設に伴って、パイロット養成所の小松海軍航空隊(予科練)も設置された。



予科練跡地は現在、農地、分譲地、荒地となっています。

加賀市一白町は、戦後帰郷しなかった予科練生や神雷隊員たちが住み着いて、開拓集落
を形成したのが始まりです。









〜参考文献〜
『粟津海軍飛行場』『小松の空』(住田正一)
『小松市 串町史』
『防人たちはいま』(北国新聞社:昭和56年3月発行)
『海軍神雷部隊』(海軍神雷部隊戦友会:1996年3月発行)
『極限の特攻機 桜花』(内藤初穂:1999年3月)
『太平洋戦争最後の証言 零戦・特攻編』(門田隆将:2011年)
『神雷部隊始末記』(加藤浩:2009年)
『一白町の歴史』(加賀市一白町史編纂委員会2009年)
北国新聞朝刊連載『雲の彼方に・小松神雷部隊の記憶』(2001年8月14日〜18日)





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