旧海軍小松基地の『神雷部隊』
人間ミサイル、「桜花」を抱えて飛ぶ母機の一式陸攻
米軍戦闘機に、母機もろとも撃墜されることが多かった。
第721海軍航空隊
〜かつて特攻専門の航空隊が小松基地にいた〜
『神雷部隊』は日本海軍がはじめて組織した空中特攻(体当たり)専門部隊、『第721海軍航空隊』の通称。
昭和19年10月1日、茨城県の百里原基地で開隊(一式陸攻、桜花11型)し、 昭和20年7月5日、721空は本部を四
国の松山基地に、主力を小松基地に展開した。
昭和20年3月21日、鹿児島県鹿屋基地から初出撃、以降は主力を小松に移し、沖縄の米艦船への特攻作戦「菊水作戦」
に参加した。出撃は10回174機(桜花76機、陸攻79機、戦闘機19機)で、未帰還は123機440人。戦闘機での特攻も数える
と、同部隊で海軍特攻未帰還の四割を占めた
終戦時には桜花隊は小松、富高、鹿屋、喜界島に、陸攻隊の攻撃第708飛行隊(隊長八木田大尉)は『剣作戦』基地
(三沢)迎日、小松に、戦闘機隊の戦闘第306飛行隊は、観音寺、松山、富高、鹿屋に、基地隊は迎日、小松、松山、富
高、鹿屋にそれぞれ展開していた。昭和20年7月1日桜花43型装備の725空が滋賀基地で開隊。昭和20年8月13日
射出実験に成功したが2日後に終戦となる。
。
終戦当時、小松基地には二つの攻撃部隊がいました。
1945年4月〜終戦まで、一式陸上攻撃機の部隊である「攻撃708飛行隊」、
7月〜終戦までは人間爆弾部隊の「桜花隊」がいました。
神雷部隊は、空中特攻(体当たり)専門の特殊航空隊で「第721海軍航空隊」の通称で、昭和19年10月茨城県の百里原
基地で開隊した。
一式陸上攻撃機が1トン以上もの爆薬を詰め込んだ、一見飛行機と同じように翼がつき、操縦席もある、人間爆弾「桜
花」を腹に吊るし、上空で切り離し敵艦に体当たりする。土壇場に追いつめられた日本海軍の決戦部隊であった。
昭和20年4月、大分県宇佐基地にあった神雷部隊は安宅小学校や愍念寺を宿舎とし小松基地に移動してきた。その後、
串町光玄寺や付近の民家にかわり終戟となった。
小松基地からの出撃は早速始まった。出撃前夜に小松をたち鹿児島県鹿屋基地に着く。翌日沖縄方面の敵機動部隊を
目指して発進する。敵の砲弾に傷ついたか、桜花はもちろん、母機の一式陸攻、護衛の戦闘機もほとんど戻らなかった。
小松からの出撃は合計9回、60機、戦死者277人にのぼった。(この数字は北国新聞社の「防人たちはいま」149頁引用)
なお、串町光玄寺や民家におられたパイロット達のほか、直属の整備隊は日末小学校を宿舎としていた。そのほか犬丸
小学校、串茶屋、今江、安宅にもそれぞれ専門の整備隊が展開していた。また魚雷調整班は苗代小学校、北浅井神社な
どに配されていた。
軍側の求めもあって、地元の人たちは、寺院や学校宿舎とする隊員を温かくもてなした。夕方になると若い隊員が民家で
夕食をごちそうになる姿があちこちで見られ、婦人会の基地や宿舎への慰問も続いた。
全国の特攻基地がそうであったように、国のために散る若者をいとおしく思い、戦地にいる吾が子等のことに思いをは
せ、ひたむきに尽くした市民がいたのである。敗戦まで半年足らず、銃後と基地のささやかな心のかよいであった。そして
何人かの交流が戦後50年たっても続いている。
この神雷部隊の飛行長で終戦を小松で迎えられた、足立次郎海軍少佐が、「神雷特攻隊始末記」に
「実際に、戦いというものは、若い士官が考えるような、ロマンティックな生やさしいものではなく、まったく悲惨その
ものである」と記しておられる。
また昭和35年4月19日、今の小松基地起工式に当時の和田伝四郎市長は「ジェット基地は、戦争の基地ではない。神雷
特攻隊の二の舞いは、絶対にさせてはいかん」と祝辞を結んでおられる。
いづれも、常に忘れてはならない核心である。
参照と引用:『粟津海軍飛行場』『小松の空』(住田正一)
終戦時の小松基地保有機
昭和20年9月1日現在(海軍省軍務局調)
海軍機 80機
零戦 6機
彗星 1機
97艦攻 7機
天山 2機
彩雲 29機(偵察機)
東海 5機(哨戒機)
96陸攻 9機
一式陸攻 13機
三式初練 2機
93中練 3機
零式練戦 3機
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陸軍機 4機
飛竜(爆撃機 ※海軍名「靖国」)
計 84機
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串町の光玄寺で宿泊していた神雷部隊の隊員
(元神雷部隊 熊谷市、佐々木勘六氏提供)
小松飛行場指揮所横にて。
(元神雷部隊 熊谷市、佐々木勘六氏提供)
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