小松の空 〜小松飛行場物語〜


石川県 小松市

小松基地F-104Jの墜落現場、金沢市泉2丁目の住宅地の現在 2015年



自衛隊機が民家に墜落、住民4人が焼死、家屋全焼17戸の大惨事事故を忘れてはいけない。










茨城県百里基地から7機j編隊で小松基地に時速450キロで向かうF-104Jが、
金沢市上空1000m付近で雷に打たれて操縦不能に陥り、パイロットは脱出した






1969年2月8日、小松基地のF-104J戦闘機が
金沢市泉二丁目10番地22の住宅地に墜落

事故発生時刻
1969年2月8日:午前11時59分頃

死者:4名(女性)
全焼:17戸




『ジェット機墜落事故 慰霊之碑』

金沢市泉2丁目の事故現場、念西寺の境内の隅にひっそりと立つ、犠牲者4名の慰霊碑
2015年 2月 8日、事故から46年目の冬に訪問し撮影しました。
この日、午前中に小松市では「ぶりおこし」の雷鳴が一発ドドドンッ!と鳴りました。
前日東京は大雪でこの日は北陸に大寒波襲来の予報。強風雨の寒い一日でした。
自衛隊機が墜落した事故当時も、寒気が大陸から流れて来ており雷の発生しやすい天候でした。

事故現場にあるお寺では午後から犠牲者の遺族らで46回目の法要が行われていました。
このお寺は墜落の被害から逃れたということでした。
私が小松市から来たというと「パイロットさんは今でも元気でいらっしゃるのでしょうか?」と老齢のご婦人が聞いてきました。
脱出したパイロットのその後の人生や心労を今でも気にしているようでした。

2〜3年で転勤していく小松基地関係者には遠い過去の事故でも、遺族には生涯忘れられない2月 8日は毎年やってきます。




金沢市の自衛隊機墜落現場を訪問する。(2015年2月8日)



冬の雷に打たれて操縦不能になったF-104Jからパイロットは脱出し、無人状態で墜落してきた。
当時の新聞報道では、南側の有松方面から飛んできて墜落したらしい。
墜落地点の南側に住んでいる人の話では、北側に爆風が広がったから南側の住民は被害を逃れたということでした。








金沢市内の国道157号、有松交差点。左折は金沢市の犀川大橋、片町へ。
信号手前の左側の路地が旧北国街道で、この路地から泉二丁目へと入っていきます。

上空は現在も民間機が飛んでいるのでジェット機の音が聞こえます。

雷に打たれて、計器類が全部アウト、戦闘機の操縦不能ということで脱出。
パイロットは気が付いたときは米丸保育所付近の田んぼに落下傘で着陸していたという。
当時戦闘機は時速450キロで飛行中で、機首を上げようとしたが上がらなかった。
高度は1000m程度だったので、落下傘の開く高度を考えるなら、とっさの脱出だったのかも知れません。

ちょうど46年前のこの日、操縦士のいなくなったF104Jは、時速450キロほどで
超低空でこの交差点をあっという間に横切って墜落していったと思われます。





写真奥の白い軽自動車の付近が墜落現場。










墜落地点!!
※左側の松の木が生えている路上付近

『F-104Jは有松方面から突っ込み、泉二丁目10-22、角村源治さん宅の二階と一階を
翼でえぐった跡があり、そばの電柱を一本引っ掛けて倒している。』
(事故当日の北国新聞夕刊記事)

写真より後方の家屋は無事でした。付近に住む方に話しを伺ったら、
「当時学生で大学にいて、ドーンという音が聞こえた」
「夕方家に帰ると、親父がガタガタ震えながら仏壇の前で手を合わせていた」
「・・・・物凄い状況だった・・・。
「もう・・・まさに今日、今日だ、今日、あのミラーのところに落ちた・・・・。今日だ、今日。」と言ってそそくさと話しを切り上げた。



あまり過去のことを根掘り葉掘り聞いて、嫌な記憶を思い起こさせるわけにもいかないので、
それ以上の細かい話を聞きませんでした。





中泉酒店前
※墜落地点から先を見る。
爆風で焼け野原のようになった地点は、当然ですが周囲と比べて家が新しいです。
旧北国街道の古びた風景がここから数百メートだけは真新しい。






来た道を振り返って、中泉酒店から墜落地点を見る。
墜落地点左側の家は新築から6ヶ月で全焼し、まったく同じ家を建てたということでした。
当時の家主から家を購入した方が現在住んでいます。





尼寺の念西寺
事故による火災被害に遭わなかった。

毎年2月8日になると犠牲者の慰霊法要を行ってきた。
事故からちょうど46年目の今日も遺族が集まっていました。



事故から46年も経つと、遺族の方々も高齢者となっていました。




念西寺の出入り口
法要を終えて帰宅する遺族たち。
奥の2人はまさに、墜落現場の両隣の住民でした。
50周忌まであと4年。

この事故の後、小松基地で何度も起きた事故をどう見ていたのか聞くことはやめました。
法要を終えた老婆が2人、強風と雨の中をヨタヨタと歩く姿を見て、そういことは野暮だと思ったからです。

「脱出したパイロットさんは今も元気なんかね?」と聞かれましたが、
私は自衛隊関係者じゃないので「さぁ?」としか応えられませんでした。
「どうされているんやろう、元気なんかな」

脱出したパイロットのことを恨むのでなく、自責の念をずっと背負って生きているであろうパイロットが
今でも元気で暮らしているか気になっているようでした。

脱出したパイロットのT・M二尉は熊本県出身で当時30歳。46年後の今でもご健在ならば76歳。
高齢者になりつつあります。

被害者はもう忘れたい遠い過去、事故を起こした航空自衛隊は永久に忘れてはいけない事故です。

二度と起こしてはいけないの事故なのは言うまでもない。






国道157号 泉三丁目交差点付近から南側を見る
茨城県の百里基地から小松基地へ帰投するF-104Jの7機編隊のうちの1機が、金沢市上空1000mで被雷し操縦不能に。
パイロットは脱出し、無人となったF-104Jは有松方面から墜落してきた。
この写真の右側上空から飛んできたと思われます。








泉二丁目交差点。事故現場は右手の旧北国街道を入ったところ、タクシーから100mほど先が焼け野原となりました。





この事故の後も小松基地では事故が多発しました。


平成11年に入間基地で起きた墜落事故は、T-33練習機が住宅地を避けようとして脱出が遅れ、
パラシュートが開かずベテランパイロット2名が死亡しました。美談としてネット上でも語られています。
一小松市民としては、パイロットにはそのぐらいの危機回避の責任感は欲しいと思います。

入間基地の事故は小さな練習機でしたが、小松基地は入間基地とは事情が違います。

毎日頭上を飛んで行くF-15J、それには補助燃料タンクが最大3本、あるいは実弾も装備して飛んで行くのですが、
幼稚園や小中学校、工場や住宅地のある滑走路RW24から離陸直後にF-15が墜落となれば、
歴史の教科書にも残るほどの甚大な事故となる可能性は高い。

「いざとなれば、絶対に民家や建物には墜落しない」という気概をもったパイロットだけが
小松の空を飛んでいるなら安心して暮らせるし、基地への信頼や信用もおける。

今後とも、最悪の事態が起きないよう、万全を期した安全への取り組みをお願いしたい。




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