小松の空 〜小松飛行場物語〜


石川県 小松市

小松海軍航空基地




小松空港(基地)の前身である、小松海軍航空基地の滑走路。
※石川県立航空プラザ(小松市)の展示写真から転載

写真上は日本海は、下は今江潟。今は埋め立てられて一面が田んぼとなっている。



小松海軍航空基地

加南地方史研究会文献より引用

 昭和16年(1941年)頃から農地開発営団が造成中の今江潟西側の増産開拓地を双眼鏡で見ておられた 竹下勇海軍大将は、同行の山口又八小松市長、和田伝四郎議長(戦後の初代小松市長)に 「海軍の飛行 場にピッタリの場所だ、市長さんも、議長さんも、のちのち協力をたのみます。」といわれた。
食糧増産のために開墾したはずの安宅の松林、砂丘地帯が小松海軍飛行場になる第一号命令であった。

 昭和18年4月、その開拓地の真ん中に『舞鶴鎮守府小松飛行場建設事務所』が建てられ、農地開発営 団の事業を飛行場建設に変更、学徒、報国会、近在の人、金沢城の陸軍工兵隊、囚人、朝鮮人などが、き のうまでの食糧増産の夢を破って、飛行場建設が二十四時間ブッ通しで進められた。

 戦時中、農地開墾名目で極秘のうちにつくられた小松飛行場、昭和19年に入って、滑走路もやや出来 て、どうにか飛行機が飛べるようになると、19年3月には京都峰山海軍航空隊(峰山空)から、7月13日に は豊橋海軍航空隊(豊橋空)から、それぞれ避退基地調査のため飛来した。特に豊橋空の一式陸攻は小 松飛行場にとって初着陸の大型実用機であった。

 豊橋海軍航空隊(豊橋空)では昭和19年11月の東京初空襲を皮切りにB29の本土爆撃が始まり飛行 訓練に支障が出始めたので、小松飛行場へ分遣隊を派遣し豊橋基地と並行して訓練が進められた。

 そして昭和20年3月初旬の特攻命令に基づいて、豊橋空の96式陸上攻撃機 15機、松島海軍航空隊 (松島空)の15機をもって特攻隊を編成、九州出撃のため小松基地を使用しはじめた。

 また昭和20年3月15日同じく豊橋空から一式陸上攻撃機が移動、6月1日北海道美幌基地に作戦移動 するまでいた。4月初めには、いよいよ大分県宇佐基地にあった神雷部隊(第721海軍航空隊=721空) が小松基地に移動、作戦に応じ特攻機となって鹿屋基地へと飛びたっていった。帰ってくる爆音は再び聞く ことがなかった。この神雷部隊生き残りの方々は8月22日小松基地で解散式を行いそれぞれ故郷へと帰っ ていった。

 これより先、5月5日、山陰航空隊小松基地隊が設けられた。この部隊が小松基地の終戦処理にあたり1 11月15日解隊した。

 そのほか、海上護衛総隊の901空、飛行輸送隊の1081空もそれぞれ小松派遣隊を展開させ、ともに小 松基地で終戦を迎えた。

 なお昭和19年9月1日、現在の加賀市新保町、柴山町の台地に美保海軍航空隊、奈良海軍航空隊の甲 種飛行予科練習生の操縦専門教育の場として、「小松海軍航空隊」が開隊していたことをつけ加えたい。

 ともあれ、小松飛行場は、敗戦、そして米軍の基地となり、航空自衛隊小松基地となって現在へと 生き続けている。まさしく50年、半世紀も続くこの小松飛行場であることも私達は忘れない。

 そして昭和35年4月19日、今の航空自衛隊小松基地起工式に和田市長は「ジェット基地は、戦争の基 地でないんじゃさかい、神雷特攻隊の二の舞いは決してござらんと確信しておりまするし、絶対に神 雷にさせてはいかんのでありまする」と祝辞を結んでおられることも。

引用:『目で見る小松の歴史B昭和のこまつ』 一部修正しました。




小松飛行場


小松市 草野町史より引用


 現在小松空港や航空自衛隊小松基地となっている地域は、戦前は無地浜(むじはま)国有林といわれてい た。国有地(営林署管轄)と、草野町、浮柳町、安宅新町、鶴ヶ島町、向本折町の飛び地で畑の呼び名は、 航空自衛隊小松基地となっている「新開(しんけ)」、小松空港となっている「萩溜(はぎだまり)」 「小芝(おし ば)」 「溝池(どぶいけ)」である。かってこの辺りでは国有林の一部も借りて水掛け用に溜め池を掘り、サツ マ芋、麦、夏野菜等を作り、養蚕の飼料の桑の木を植え、手に余る土地には松などを植え、自宅からかなり 遠いこの場所まできて営農に励み、古畑で土質は肥沃であった。

 昭和12年7月に勃発した支那事変(日中戦争)は年とともに作戦地域が広がり、全国各地に飛行場造りが 盛んに行われるようになった。そして太平洋戟争に突入する直前の昭和16年5月13日、食糧増産計画遂 行のために設立された農地開発営団は、同年10月5日本年度開発地区に今江潟地区、篠原地区を決定 し、国有林の部分及び新開、萩溜一帯を水田化することとなった。そして12月1日開拓民や学生が開墾に かかり、昭和17年5月20日、32町歩が完了した。しかし、一作しか作らないうちに海軍舞鶴鎮守府施設部 が軍の飛行場とすることに決定し、昭和18年4月1日同鎮守府管轄の小松飛行場建設事務所が開設され た。

 食糧増産が叫ばれている矢先のことであったが、軍備拡張が何よりも優先し、土地は強制的に買収され、 先祖伝来培ってきた農地も戦争遂行のため、やむなくこれに応ぜざるを得なかった。

 個人の土地の立木は、軍の命令した期日までに伐採除去しないものはすべて軍で焼却するとのことであ り、そのため木材業者の言い値で売却し、残りは薪用として一部自家用に運んだが、何分にも広い道路も なく、小車か人の肩でわずかに運んだだけで残った分は軍が処分した。整地は、トロッコによって行われ、 人夫には朝鮮人労務者や金沢刑務所の囚人が来ていたが、その後、徴用労務者も来るようになった。

  昭和19年9月20日、滑走路はほぼ出来あがり、豊橋航空隊の航空機が空襲退避場として利用するよ うになった。

  同年11月には東西1,500m (幅100m)南北1,700m (幅100m) の十字の滑走路が完成し、攻撃隊二 個隊が常駐するようになった。昭和20年3月には米軍の進攻が逐次本土に近付き、小松飛行場は「神雷特 攻隊」の基地となり若いパイロットが次々と出撃していった。舞鶴海軍鎮守府は、沖縄死守のため南北線の 滑走路を北に延長することを至上命令とし、草野領の田んぼのど真ん中を七百割の所まで坪1円50銭から2 円程度(当時の米価は一俵18円80銭)で強制買収(同時に山崎宅の前から浮柳町に通ずる道路を広げ た。)し、滑走路の延長に乗り出したが、昭和20年8月15日の終戟で現在の自衛隊安宅新官舎が建っている 所だけ埋め立てて終止符を打つ結果となった。

  終戦により、8月22日神雷部隊は解散、同月26日901空派遣隊も解散し、11月飛行場は進駐軍によっ て接収され、翌年から米軍が駐屯し補助(レーダー)基地として利用されることとなった。その後昭和26年サ ンフランシスコ講和条約が締結され、昭和28年4月10日日米共同管理となり、同月30日北陸航空輸送株式 会社が創業して小松空港が開港した。

 昭和29年6月9日、防衛庁設置法、自衛隊法が公布され、昭和30年7月2日から小松−大阪間の定期航空 路が開始され、昭和31年3月10日に航空管制業務が米軍から返還されるなどし、昭和32年5月31日米軍基 地が閉鎖し、昭和33年2月19日施設の一部を除き日本に返還され、同年3月防衛庁が財産管理を行うことと なった。

 そして、昭和36年6月11日小松基地開庁式が行われ、航空自衛隊のジェット機基地としてF-86Fジェット戦 闘機が配備され民間航空との併用の飛行場となった。
 戦後、飛行場用地として使用されている以外の部分(県道京町安宅新線の西側)について払い下げの申 請をし、無事払い下げを受けることができた。



 安宅林の払い下げと土地改良

  戟時中食糧増産は国の至上命令であった。そこで飛行場用地接収の打開策として、安宅林国有林(市 道西側の一部。現在のホの部)の借地願いを金沢営林署へ申請することとなった。昭和18年営林署の許可 が下り、戦時中の人手不足の中、松の木の伐採や抜根等をし、畑地としてさつま芋や種々の野菜を作り食 程増産に励んだ。

 敗戦後の食糧危機は言語に絶するものであった。復員する兵士諸氏、海外移住者の引き上げ、そして敗 戦国の惨めさをまざまざと体験させられた。官憲の手による強制供出米制度が施行され、百姓といえども米 飯には各種の混ぜ物をして食べる生活であった。

 また、市道東側の安宅林(現在の浜佐美本町、草野町二の部。「安宅山」といった。)の松林も食料増産の 一翼を担うため金沢営林署へ開墾を願い出て貸付を受け、芋その他の栽培をした。昭和25年、10年間は 転売はもとより建物一切の構造物の設置は禁止するという条件のもとで払い下げを受け各自の所有となっ た。

 昭和29年秋、砂丘地農業振興法の適用を受け、従前の田の排水事業、前記ホ、ニの部分の畑地灌漑工 事をすることとなり、安宅新、浮柳の払いげ地も含めて小松西部土地改良区が設立された。当町からは中 村伊三次、山崎莞寿の両氏が理事・監事として工事委員に選出された。

 小谷川の改修工事から始められ、昭和29年の暮れから30年春までに安宅小学校前の排水工事の一部を 施行し、昭和30年小谷川改修工事の継続と共に、ホ、ニの部分の畑地灌漑工事に着工すべく、愛知県豊川 自衛隊(工作部隊)の応援を要請し、着工の運びとなった。
 なお、ホの部は工事費その他の関係からこの事業から除去することとし、第一期工事として草野、浮柳、 下牧、鶴ヶ島、安宅の五町の新・旧払い下げ地の整地を始めた。
 そして、当初計画の畑地灌漑工事は、今後の食程事情等を勘案して、この際効率の良い稲作栽培に切り 替えた方が有利であるとの説に変わり、自衛隊のプルトーザ一による地ならし作業が始まった。しかし、単 に地ならしした程度では地下水も低く、加えて目の粗い砂地では保水力もなく、期待された灌漑工事も初期 の目的を達することが出来ず失敗に帰した。

 政府から助成を受けたものの残りは農林中央金庫からの借入金であり、その返済のため、折角の払い下 げ地も10年間転売禁止にもかかわらず一部不動産業者を通じて処分された。しかし、この土地を是が非で も守ろうと歯を喰いしばって運搬業者に砂を取ってもらい、地下水位くらいまで掘下げて水稲を作ることがで きるようになり、昭和34年から田植えをするようになった。

 以来10年間稲作もかなりの収積を得るようになったころの昭和44年夏、航空自衛隊小松基地の滑走路西 側に位置する浜佐美町の集団移転問題が持ち上がり、この二の部が注目された。小松市当局、自衛隊施 設部の度重なる来訪説得に対し、町内は協力すべきか土地を守るべきかに意見が分かれ容易に収拾がつ かなかった。ようやく町内の総意として二の部、隣接のラの部の一部を売却することとなり浜佐美町の移転 が決まったのである。再度の埋め立て造成が行われ昭和46六年浜佐美本町が誕生した。30年余りで実に 猫の目のように変遷した場所である。


北陸20世紀“特派員”「小松海軍航空基地」
北国新聞朝刊(1999年8月8日)




大軍都の夢、「基地の街」の原型に、南海に散った若者見送る

 ギリシャ神話のイカロスの時代から、大空への憧れを抱きつづけた人間は、二十世紀初頭、ライト兄弟が 世界最初の動力飛行を成功させた。北陸の人々も世紀の発明を熱狂して迎えたが、皮肉にもそれは兵器と して目覚ましい発達をとげ、大戦では飛行機の数と質が勝敗を分けた。敗色が濃厚となった戦争末期、小 松に建設された飛行場に、大軍都への夢を抱き、短い生の輝きを確かめようとする若者に人々はひたむき に尽くした。五十余年前、南海に消えた若者は、北陸の空の玄関の扉を未来に向かって押し開き、基地の 町の基礎を形成した。

 小松市に飛行機が初着陸したのは、大正六年八月のことである。着陸場となった能美郡御幸村(現小松 市青路町)にあった陸軍馬政局石川県種馬所の畑に、六キロ離れた小松町から来た児童や多数の観客が 詰め掛けた。

 爆音を響かせて姿を現した布製の二枚の翼を重ねた「モ式四型複葉機」の着陸の様子を、創刊二十四年 目の北國新聞は「プロペラーの音勇ましく種馬所の空を望みて進行するにぞ、ソラ飛行機が来た、と町民の 老いも若きも一斉に街路に飛び出し、アレヨ、アレヨと喝采するなか…、地上を滑走すること約十米にして無 事着陸したる」と描写している。

 その後、種馬場は県に移管されるが、敷地の一部が神戸市の川西飛行機製作所の所有として「川西牧 場」となり、製作した機体の試験飛行を兼ねて、頻繁に飛行機が飛来した。


天然の迷彩、最適位置

 川西牧場から北、日本海に至る平野は、砂丘と松林が日本海に並行してどこまでも続く典型的な浜手の 地形で、地元民は「むじなが浜」と呼びならわしていた。昭和十六年末、この浜を、農地開拓営団が食糧増 産を目的に伐採と砂原整地を開始した。ところが、十八年、にわかにこの地を海軍飛行場建設にあてる構 想が打ち出された。

 今日、日本海と加賀三湖にはさまれ、霞ケ浦と同様の天然の迷彩があり、保養地の温泉場も近く、日本海 の対潜哨戒基地として最適位置である―などの理由が研究者によって指摘されているが、防衛庁防衛研究 所に残る海軍航空本部作成の「昭和十三年五月二十一日の航空兵力補充増勢計画打合覚」、同十六年九 月の「航空兵力増勢計画実行案摘要」にも「小松」の名が記され、昭和初期から、基地候補に上がっていた ふしがある。

 また、昭和三十五年、航空自衛隊小松基地の起工式で和田傳四郎市長は、同十六年末、開拓地を双眼 鏡で眺めた竹下勇海軍大将が、同行の山口又八小松市長と、当時議長だった和田に「海軍の飛行場にぴ ったりの場所だ。市長さんも議長さんも、後々協力を頼みます」ともらしたと語っており、航空兵力増強を図 る海軍が小松に注目していたことは確かである。

 十八年四月、開拓地に舞鶴鎮守府小松飛行場建設事務所が建てられ、坪二十六銭で買い上げられた土 地では当時の中学生、市民、囚人まで加わり、二十万人の労力をつぎ込んだ建設作業が昼夜兼行で進め られ、十九年十一月、東西千五百メートル、南北千七百メートルの十文字に交差する滑走路が完成したの である。

 一方、和田は建設が進む基地をみながら、別の夢を抱いていた。周辺の村を編入して軍事施設を呼び込 み、人口五十万の大都市を目指す構想である。

海軍神雷部隊の進出

 第九師団を擁する軍都・金沢への対抗心もあり、海軍の求心力を最大限に利用しようと、山口市長を説き 伏せた和田は「ウラの市を海軍様の準鎮守府にしてくだされ」と、海軍舞鶴鎮守府で熱心に訴えた。

 軍都となりうる基盤もあった。海軍航空隊の整備員として転戦し、戦後は小松市の航空史を研究してきた 住田正一さん(74)=小松市高堂町=は、当時のハイテク技術を駆使した飛行機を整備する優秀な技術者 が海軍に必要だったとし「織物に代表される北陸の工業地帯だった小松には、手先が器用な人が多く、飛 行機に対応できる土地がらだった」と指摘する。

 加賀市一白には甲種飛行予科練習生の操縦教育機関「小松海軍航空隊」、小松市遊泉寺町には石切り 場跡を利用した軍需庫、航空機部品製造場が置かれ、軍都計画は現実のものとなるかに見えたが、その 夢を追い越すように米軍の侵攻は早く、小松の後方基地としての戦略的価値が高まっていく。

 連合艦隊が壊滅し、日本の敗色が濃厚となった昭和二十年四月、小松基地に第七二一航空隊「神雷部 隊」が進出した。有人ロケット爆弾「桜花」を主兵器とする特攻部隊で、小松には母機の一式陸攻の搭乗員 が移り、日本海上空で訓練を行い、最前線である鹿児島県鹿屋へ出撃するのである。

 当時、鹿屋基地で神雷部隊の指揮をとっていた第七〇八飛行隊長八木田喜良さん(79)=金沢市新保本 一丁目=は、克明なメモを手に悲劇を語る。「十機出撃したら一機帰ってこれるかどうか、というところだっ た」。一式陸攻は桜花投下後の帰還が了解事項だったが、米軍の優秀な戦闘機群と艦隊防空システムに はばまれ、鈍重な親子飛行機が生き残れる確率はほとんどなかった。陸攻搭乗員も「命名されざる特攻隊」 (八木田さん)だったのである。

 それでも、神雷部隊は追いつめられた日本海軍の切り札として、九州、沖縄海上の米艦隊へ戦いを挑み 続けた。八木田さんは、鹿屋基地の壕内通信室で、特攻機が敵艦に突入する際に発する電波を幾度も聞 いた。「長いツーがしばらく聞こえ、不意に切れる。隊員がこの世から消えた時です。敵艦に当たったか、海 へ落ちたかは分からないが、彼らの最期の咆哮を聞くのはつらかった」と涙を浮かべる。

隊員との交流

 隊員の悲劇性のゆえか、市民は国に殉じようとする若者を安宅、日末、串町などの学校、民家、寺院など に分宿させ、あたたかくもてなした。串町の光玄寺もその一つである。佐竹圓祐前住職は、昨年夏、北國新 聞の取材に「本堂前で出撃命令を受け取った隊員はね、前夜に宴会を催して、楽しげに名残を惜しんでい ました」と、隊員の素顔を語る。

 串町には、隊員が作詞、作曲、振り付けをしたとされる「串町音頭」が五十四年後の今に伝わっている。 「ハアー 串の娘さん 郷土の職場 朝の早ようからヤレサヨー 機を織る」。どこか、日光和楽に似た旋律 は、栃木県出身の隊員が同町青年団とともに手がけたという。同町民図書館長中村哲夫さん(71)=同町 =は、「出撃すればほとんど帰ることのない若者は、短い生の実感を、地元民との交流に見いだしていたの でしょう」と振り返る。

 昭和二十年八月十五日。終戦の詔勅を小松基地で聞いた神雷部隊は、二十二日、飛行場で全隊員によ る解散式を行い、陸攻に便乗し、それぞれの故郷へと向かった。

 その後、小松は米軍の補助レーダー基地、さらに航空自衛隊第六航空団、民間空港として発展を見せ た。空の果てに消えた若者たちは今日、北陸の空の玄関として繁栄する小松の下地を作ったと言えるだろ う。

 「彼らが乗った緑色に真っ赤な日の丸の飛行機はね、出撃すると必ず、寺の上空で旋回してくれてね、南 の空へ消えていきましたよ。いつまでも手を振っていたっけ」。そう思い出を語った佐竹前住職も、先月三十 一日、天寿を全うして、散っていった若者の待つ冥府へと旅立った。歴史の生き証人がまた一人、消えた。





1970年頃の小松空港(国土地理院)

戦後の滑走路は、ジェット機の騒音対策のため、
海側と並行に滑走路を作って、海から旋回して着陸、離陸してから海に向かって飛んで行く、
そんな設計になっています。







大正2年頃の地形図



昭和32年頃の地形図

プロペラ機は風上に向かって飛ぶので、この当時は十字滑走路にして、
北風の強い日、西側の風の強い日によって滑走路を使い分けていた模様。










昭和35年3月10日撮影








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